フィリップス・コレクション展

三菱一号館美術館で開催中の展覧会、「フィリップス・コレクション展」を観てきました。

コレクターの業績という観点から作品を収集した順に並べて見せるという企画も、なかなか面白いと思いました。僕好みの絵にたくさん出会えて満足です。ボナール、ヴュイヤール、モランディ……

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今回は隣の家のコータロー君の声が聴けるというので、音声ガイドも借りてみました。コータロー君、なかなかいい声でした。

問いを見つける

 『考えるとはどういうことか』(梶谷真司著、幻冬舎新書)を読んだ。 

  筆者が実践しているという「哲学対話」というものに、とても興味がある。自分もそのメンバーの一人として参加できる機会があれば、ぜひ参加してみたいと思う。詳しく説明してくれているのでだいたいのイメージは掴めるが、やはり実際参加してみなければわからない部分もあるだろう。
 しかし、型通りの「哲学対話」を行うというのでなくても、その考え方を授業の中に生かせないか、とも思う。「問い」を見つけることは大事だと教室では毎回のように言っているが、生徒自らが良い問いを見つけ、そこから自発的な学びにつなげていくというのは、なかなか難しいことだ。

教科書に出てくる問いを見て、「これこそ私が考えたかったことだ!」と思う人は、おそらくただの一人もいないだろう。そのように押しつけられた、興味もない問いを「解く」ことは、考えることではない。考えさせられているだけで、強いられた受け身の姿勢を身につけるだけである。(太字は原典では傍点、以下同じ)

  「考えさせられている」生徒はまだ良い方で、多くの生徒は最後には教師が答えを示してくれるだろうと考えずに辛抱強く待っている。そうなると、教師も「答え」を示さざるを得ない。では、どうしたら良いのか。

考えるには、考える動機と力がいる。自分自身が日ごろ、疑問に思っていることはつい考えたくなる。考えずにはいられない。こういう考える力をくれる問い、つい考えたくなる問い、考えずにはいられない問い、それが自分の問いであり、そうした問いを問うのが、自ら問うことである。…

自分で見つけた問いは、考えるのも楽しいし、自分でついつい考えてしまう。

  本書には、自分で問いを作り出す具体的な方法も多数示してくれている。問いの質が高まれば、そこから思考は動き出すという。この本をヒントに、生徒が主体的に考える授業のあり方をこれからも模索していきたいと思う。

図書館の蔵書検索機能は便利だ

片岡義男の小説を読んでみようと思った。とりあえず最寄りの図書館にあれば借りようと思って、横浜市立図書館の蔵書検索ページで探しているうちに、わざわざ図書館まで出かけなくても、家にある本の中にも片岡義男の短編小説を収めたものがあることがわかった。今年の夏に古本屋で買って、拾い読みしていた文庫本『夏休み』(千野帽子編)だ。これは夏休みをテーマにして編まれたアンソロジーで、11人の作家の作品が収められているが、その中に確かに片岡義男の短編小説もあった。「おなじ緯度の下で」だ。これが僕にとって初めて読む片岡義男の小説ということになった。

夏休み (角川文庫)夏休み (角川文庫)

 

 それにしても、図書館の蔵書検索機能というのは、とても便利で、図書館の本を利用しようとするときだけに役に立つのではないことがわかった。例えば、ちくま文庫に『なんたってドーナツ―美味しくて不思議な41の話』という本がある。その41の中身は筑摩書房のホームページを見てもすべてはわからない。目次の一部が紹介されているだけなのだ。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480432186/
ところが、蔵書検索で調べると、41の文章の題名、筆者名がすべてわかる。その中に、片岡義男の「ドーナツの穴が残っている皿」がある。堀江敏幸荒川洋治村上春樹長田弘いしいしんじといった名前も見つかる。それぞれがどんなことを書いているのか、読みたくなってしまう。

コーヒーと過ごす時間

   『珈琲が呼ぶ』は、『コーヒーが呼ぶ』ではいけなかったのだろう。それでは本の売り上げが何割かは下がるという判断があったかもしれない。本文中では(「スマート珈琲店」のような店の名前は別として)「珈琲」は出てこなかったと思う。たぶんすべて「コーヒー」だ。日本語の表記法の豊かさ、複雑さ、微妙さを思う。

珈琲が呼ぶ

珈琲が呼ぶ

 

この本は、コーヒーについて書いてある本ではなくて、コーヒーが出てくる本だ。コーヒーを飲む場面が出てくる映画や漫画の話、歌詞の中にコーヒーが出てくる洋楽の話、著者がよく行った喫茶店の話。どの話の中でも、どこの産地のコーヒーが苦いとか、酸味が強いとか、どうやって淹れたコーヒーが旨いとか、コーヒーの味についての蘊蓄などは一切語られない。その点では徹底していると言える。

極論してしまえば、著者にとってコーヒーの味はあまり問題ではない。どういう状況で飲んだか、つまりどこの喫茶店のどこの席で(どんな椅子で)飲んだか、飲みながらどんな原稿を書いたのか、誰と一緒に飲んだのか、その誰かとどんな話をしたのか、つまりはコーヒーと共にどんな時間を過ごしたかが問題なのだ。だから、インスタント・コーヒーだってコーヒーのうちだ。インスタント・コーヒーの出てくる「砂糖を入れるとおいしくなるよ、と彼は言う」や「『よくかき混ぜて』と店主は言った」などは、実に味わいの深い魅力的な文章だ。

実は僕にとって、片岡義男はこれが初めての本だ。独特の硬めの文体は、慣れると癖になるようだ。コーヒーを飲みながら、もっと他の片岡義男を読むとしたら、何が良いのだろう。

諸悪の根源としての「感動」とは?

冒頭に置かれた「感性は感動しない」を何度も読み返した。
しかし、どうしても途中から理解できなくなる。

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)

 

「感性」をみがくことはできない。「努力」や「修行」によって磨くことができるのは「技」である。芸術に「技」は必ずしも必要ではない。芸術に必要なのは「感性」である。だから、芸術を「教える」ことは「ひどくむずかしい」。たとえば美術史なら教えることはできるが、それを修めたからといって「よい絵」を描けるようになるわけではない。
そもそも「よい絵」とは、見る人の「心を動かす」ものだ。

哀しみでも憎しみでも喜びでも怒りでもかまわない。ポジティヴな感情でもネガティヴなものでもかまわない。見る人の気持ちがわけもわからずグラグラと揺り動かされる。いても立ってもいられなくなる。一枚の絵がなぜだか頭からずっと離れない。それが、芸術が作品として成り立つ根源的な条件なのである。

 ここまでは、よくわかる。ところが次の段落から先が難しくなる。

芸術が生み出すこうした現象を、私たちはしばしば「感動」などとひとくくりにしてわかったつもりになってしまう。これがよくない。その意味では芸術にとって「感動」は諸悪の根源だ。

人は、気持ちが「グラグラと揺り動かされる」ような経験をしたとき、「感動」したと言う。それがなぜ「諸悪の根源」と言われるほどに問題なのか。筆者は「かたまりとしての思考」以下の諸編で、絵を鑑賞するのに大切なのは、絵をまるごと「かたまり」として受けとめることだと繰り返す。(筆者がこの本全体を通して一番言いたいのはそのことだと思われる。)筆者は気になる絵の前に立つときは、意見も感想も述べたくない、「答えも結論も出さないまま感じていたい」というのだが、そういう心の状態をシンプルに表す言葉として「感動」はふさわしくないのだろうか。
次の段落はさらにわかりにくくなる。

感動などと言って済ませようとした瞬間に、あの苦労物語がここぞとばかり首をもたげてくる。この絵を描くのに、画家がどれだけ血のにじむ努力をしたことか。どれだけ多くの人が関り、波乱万丈の道程があったことか。などなど。

芸術作品に触れて「感動」した鑑賞者は、いつでもその作品成立の陰に「血のにじむ努力」があったとか「波乱万丈の道程」があったはずだと考えるものだろうか? 逆に、「感動」という言葉が浮かばなくても、絵を観ていて、「この画家はきっと女でさんざん苦労したな」などという「雑念」が浮かぶことがあるだろう。それって、鑑賞態度としてまずいことなのだろうか。

次の段落の真意も汲みとり難い。 

こうなってくると、無理矢理にでも感動しなければいけない気持ちにもなってくる。感動しなければ、自分が罪深いようにさえ思えてくる。一致団結して感動を支えるべきだ。そのためには、もっともっと勉強しなければならない。努力して感性をみがかなければならない。

まず、無理にでも感動しなければという気持ちはどこから生まれてくるのかがわからない。(「こうなってくると」の指示内容があいまいなのだ。)そもそも、どうしても「感動」できない自分を「罪深い」などと責める人がいるのだろうか。「一致団結」って、いったいどういうメンバー同士が団結するのか?(俳句結社のようなものを思い浮かべてみると、わかったような気にもなるのだが…)
筆者は「感動」という言葉で片付きそうなところでも、あえてそれを避けて「心を動かされる」「心を揺さぶられる」という表現を繰り返す。どうやら筆者は「感動」という言葉に、余計な夾雑物が絡みついているように考え、それを忌避しているようにもみえる。しかし、その夾雑物が何であるかが明確に見えてこない。

そして、そもそも「感性は感動しない」という題名に「感動」という語が使われていたことに気付くのだが、やはりこれがどういう意味なのか、わかりそうでよくわからないのだ。

扇のかなめ

 寺田寅彦を読みたくなったときは、『寺田寅彦随筆集』(岩波文庫)の目次のページを開いて、面白そうだと思ったタイトルの文章を拾い読みする。俳句関係の文章はだいたい読んだつもりだったが、今日読んだ「夏目漱石先生の追憶」と題された文章の中に、こんなくだりがあった。
 寺田寅彦が熊本第五高等学校在学中、所用があって、初めて漱石宅を訪ねたときのこと。

…雑談の末に、自分は「俳句とはいったいどんなものですか」という世にも愚劣な質問を持ち出した。(中略)その時に先生の答えたことの要領が今でもはっきりと印象に残っている。「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」「花が散って雪のようだといったような常套的な描写を月並みという。」「秋風や白木の弓につる張らんといったような句は佳い句である。」…

  これをきっかけに俳句に熱中するようになった寅彦は、自作の句を添削してもらうため、「恋人にでも会いに行くような心持ち」で漱石宅に通うようになる。漱石が自分の句と一緒に寅彦の句も子規の所に送り、子規がそれを添削して送り返してくれたこともあったという。何ともうらやましい話ではないですか!

 寺田寅彦はどんな句を作ったのか。「増殖する俳句歳時記」には、

藁屋根に鶏鳴く柿の落葉かな

など、八句が取り上げられている。

寺田寅彦随筆集 (第3巻) (岩波文庫)

 

 

 

 

女性の俤

 恋と呼べるほどにも育っていない女性へのほのかな想いは、突如その女性が姿を消してしまうことで、喪失の悲しみに変わる。いや、女性の不在という現実が、女性に対して想いをいだいていた自分自身に気付かせる。そして、女性の俤はいつまでも心の中で消えることはない。「山の手の子」(水上瀧太郎)の「お鶴」、「千鳥」(鈴木三重吉)の「藤さん」がその女性だ。

(061)俤 (百年文庫)

(061)俤 (百年文庫)