転校という異文化交流

「百年文庫」の91巻(テーマは「朴」)を読んだ。

朴 (百年文庫)

朴 (百年文庫)

 

 新美南吉の「嘘」は、不思議な転校生がやってきて、教室の空気を変えるという設定が、「風の又三郎」を思い出させる。その転校生は横浜から岩滑という田舎の学校にやってくる。小学生の時、僕も横浜から埼玉県の川口に転校した。横浜は歌謡曲にも歌われる気取った都会、そんな所から来たというだけで、僕は生意気だといじめられた。実際は僕の住んでいた横浜郊外の町よりも、川口の方がずっとにぎやかな都会だったのだが。

さて、主人公の久助が転校生に向かって「横浜からきたのン?」と訊く場面。

ところで、きいてしまってからひやあせが出るほどはずかしい思いをした。というのは、「きたのン?」などということばは、岩滑(久助の住む町)のことばではなかったからだ。岩滑のことばできくなら、「きたのけ?」あるいは、「きたァだけ?」というところである。しかし久助君には、日ごろじぶんたちが使いなれている、こうしたことばは、この上品な少年にむかって用いるには、あまりげびているように思えた。といって久助君は、岩滑以外のことばを知っているわけでもなかった。そこで、どこのことばともつかない「きたのン」などという中途はんぱのことばが出てしまったのである。

僕の場合は逆の経験をしている。「〇〇じゃん」という言い方で神奈川の人間だとわかったと言われて、自分のことばが実は「標準語」ではないということ、神奈川方言であることを初めて知ったのだ。それからしばらくは、しゃべるときに「じゃん」が口から出ないように意識していたが、どうもぎこちなくて、自分のことばではないような言い方になってしまったことを覚えている。転校生という存在は、一種の異文化交流を引き起こすということだ。

 

 

異物としての主人公

島尾敏雄の短編集『硝子障子のシルエット』を読んだ。 

硝子障子のシルエット―葉篇小説集 (講談社文芸文庫)

硝子障子のシルエット―葉篇小説集 (講談社文芸文庫)

 

 この中のいくつかは若いころ読んだ「特攻隊もの」と響き合い、いくつかは昨年読んだ『死の棘』と呼応することに気付く。つまりは、「解説」で秋山駿が指摘するように、これらは「作家の秘密を解く『鍵』としての役割をもつもの」ということができる。
夫として、父として、家族に対して違和を覚え、戸惑い続ける男。あるいは、外界に対してしっくりとなじめない、異物としての自分。そんな冴えない主人公に惹かれてしまうのはなぜだろう。

北欧を訪ねた気分で、湘南の夕日を眺める

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 フィンランドの建築家アルヴァ・アアルトの展覧会を観に、葉山まで行って来ました。建物の設計だけでなく、家具、照明器具、ガラス器などのデザインを手がけたアアルトの魅力がたっぷりと詰まっていて、見応えたっぷりです。

 アアルトの椅子に座って夕日を眺めるという目論見も見事成功! 幸せなひと時を味わうことができました。 

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 同時開催のコレクション展「描かれた「建物」」も見応えがあり、ここで思いがけずたっぷり時間を過ごしてしまった。松本竣介佐伯祐三古賀春江など、神奈川県立近代美術館収蔵作品の質の高さを誇らしく思います。 

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国語の問題の問題

   紅野謙介国語教育の危機―大学入学共通テストと新学習指導要領』(ちくま新書)を読んだ。読む前から、書名を見ただけで内容が想像できてしまう。「大学入学共通テスト」について多くの大学が不安をいだいていることは、新聞でも報じられている通りだ。

https://www.asahi.com/articles/DA3S13714259.html

 本書は、既に公開された「サンプル問題」および「試行調査(プレテスト)」の国語の問題をつぶさに検討し、その問題点を指摘している。
 「新学習指導要領」のねらいを先取りする意図で作られた試験問題は、複数の文章(資料)にまたがった設問を用意しなければならないという要請に応えるべく、非常に無理をして作られたようで、この問題を解くことにどれほどの意味があるのかと疑わざるを得ないものが多い。また、短時間で多くの資料に目を通して答えを導き出さなければならない受験生の戸惑いは大きいに違いない。実際、プレテストの中には非常に正答率の低かった設問もあり、これで受験生の力を図るという機能を果たすことができるのか、はなはだ怪しい。

 筆者の批判は手厳しい。 

大学入試センターで英知を集めた結果がこのとおりです。サンプルの試験問題が困難であるならば、全国の高等学校で展開される定期試験や実力試験でも苦しいことになるのは目に見えています。実現の可能性と持続の可能性のきわめて薄い試みに、大学入試センターは無理やりチャレンジしているのではないでしょうか。

 大学入試問題は、高校生にこのような力をつけてほしいという指標になるものだから、我々国語の教師も日頃の授業の指針として常に意識している。本当に「プレテスト」のような試験が実施されるとしたら、授業の中でどのように対応すべきか、戸惑うばかりである。

 

論理とハラ芸

高校生のための論理思考トレーニング (ちくま新書)

高校生のための論理思考トレーニング (ちくま新書)

 

  西洋文明と遭遇した明治の知識人は、西洋由来の抽象概念のほとんどに漢語を当てはめて、英語の翻訳としての現代文を作った。しかし、日本語が完全に英語化したわけではない。和洋折衷、和魂洋才である。英文にはあるロジックは、日本語の現代文にはない。日本語では、言いたいことは言葉にせず、察してもらう。つまり、日本語によるコミュニケーションは「ハラ芸=テレパシー」である。だから、英文の読解を通して論理思考のトレーニングをしても、それをそのまま日本語の現代文の読解に応用することはできない。現代文の参考書なども、「論理的読解」を標榜しながらも、曖昧な方法論しか提示できていない。
 では、国語力の養成のためにはどうするべきか。論理思考のトレーニングは英語の教師が行う。国語の教師は、明治から昭和までの美しい日本語を音読、あるいは書写するなどして、身体知として身につけさせる。これによって、ハラ芸(ホンネ)とロジック(タテマエ)の使い分けという、目指すべき本来の国語力が身に着くのである。


 …と、著者が述べていることをまとめてみたが、どうもしっくりいかない部分もある。英語の「論理」は筆者が言うように(「あとがき」p.213)、日本語の「察し」や「ハラ芸」を「蹂躙」するものなのか? 両者は相いれないものなのか? 「察し」に近い言葉に「行間を読む」というのがあるが、英文では行間を読むということはないのか?
 誰か、教えてください。

受験英語は実用英語

 大学を受け直そうというわけではないが、高校生向けに書かれた『完全独学! 無敵の英語勉強法』という本を読んだ。
 大学受験の頃の英語力が、その後どんどん落ちていくのはもったいないと思いつつも、英語を本気で勉強する必要に迫られることなく、40年以上も経ってしまった。逆に少しずつでも勉強していれば、今頃は相当な英語力が身についていたかもしれないのに。
 英語を使えなくて困ったという経験はないのに、英語が気になっているのには、理由がある。一つは自分が英語が話せないために、消極的になってしまっている場面があるのではないか、英語を聞き取ったり話したりする力がつけば、もっと世界が広がるのではないかという思いがあること。もう一つは、純粋に語学は面白いということだ。大学受験の英語をいやいや勉強したという記憶はない。
 だからこんな本に惹きつけられる。何も高校生向けの本を選ばなくても、オトナのために書かれた英語の本はいくらでもあるのだろうけれど、「受験英語こそ、日本人にとっての正しい英語修得への唯一最短の道」だという主旨で書かれたこの本は、受験生だけに読ませておくのはもったいないのだ。
 この先一番役に立つだろうと思ったのは、英語の文章が「森のロジック=三角ロジック」と呼ぶべき論理構造で支えられているということ、文章を構成するひとつひとつの英文には、「木のロジック(そのカギが5文型)」が働いているということだ。これについては、同じ著者による『高校生のための論理思考トレーニン』(ちくま新書)に詳しいそうなので、ぜひ読んでみたい。
 もし、高校生だった僕がこの本を読んでいたら、もっと受験勉強の能率が上がったかもしれないし、大学受験が終わっても英語の勉強を地道に続けていたかもしれない。「ちくまプリマー新書」のある今の高校生がうらやましい。