新しい情趣

柴田千晶著、句集『赤き毛皮』が届いた。
この句集の読者は今井聖による「序」を読むのは後回しにした方がいいかもしれない。巻頭に置かれるにしてはあまりにも立派な「柴田千晶論」になっていて、(と同時に今井聖の俳句観の披瀝にもなっているのだが、)それは作品理解の助けとなることは勿論だが、虚心に作品と向き合うことを妨げもするかもしれない。

一句の中に何よりも「私」のリアル、或いはその片々が立っていることが千晶作品の要件である。
読者が感じる違和感は実はそのリアルの生々しさが原因。
従来のロマンに慣れ、それを期待した俳人は顔をそむけざるを得ないのだ。

僕はもともと「花鳥諷詠的世界」ではない新しい情趣、個人的なリアルの生々しさから顔をそむけるつもりはないが、新しさ、生々しさゆえにありがたがることもしない。ただ、自分に親しく語りかかけてくる句を拾い集めることを楽しみながら読みすすめるだけだ。


「軀」の章より。


月の部屋抱き合ふ影は蜘蛛のごと
ソプラノのだんだん素裸月明り



ここには著者が「花嫁の性―あとがきにかえて」で言う「『性的な私』の切実さ*1」は希薄だと思うし、どちらかといえば「従来的情趣」に傾いているかもしれない。でも、何回読んでも僕が選ぶのはやっぱりこの二句。今井聖が「序」で取り上げ、著者の自選十句にも入っているのは「夜の梅鋏のごとくひらく足」だが、「蜘蛛のごと」の方がそこに自分自身の「影」を見出さざるを得ない分だけ「切実」に感じるのかもしれない。「ソプラノ」の句はあっけらかんと明るい官能性が充分に魅力的。


「煙の父」の章より。


溲瓶洗ふ雪降る窓の明るくて
曼珠沙華私の骨の中に父



父親を描いた一連の作品は、著者との性の違いを超えて、そのリアリティが迫ってくる。


「派遣OL東京漂流」「赤き毛皮」の章より。


アリバイの崩るるナイター大画面
注射器の山より虹の青始まる
死後残るホームページや黄水仙



ここにはシニカルな目が切り取った現代のリアルがある。

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*1:正直なところ、著者がこの句集において「『性的な私』の切実さ」をよく表現し得ているのかどうか、僕にはよくわからない。さらに言えば、そもそも俳句という形式がそのことにふさわしいのかどうかも疑問に感じている。詩や小説という表現手段もあるのではないか、とも思う。しかし、僕には今その問題に言及する力量はない。