クオリアの言語化

俳句という十七字は日常の「具体」から生まれながらも汽水域での発生により近いがために、私たちの感情から「普遍」を引き出す「抽象」にもなり得るのだと私は思う。具体的な言葉の中に普遍性を見出すこと。それが俳句における抽象的思考といえる。(第一部 俳句脳の可能性 茂木健一郎

僕の興味をひいた箇所のひとつです。「汽水域」とは「具体」と「普遍」が重なり合った領域のこと。茂木健一郎の言わんとすることを僕なりに言い換えれば、俳句を作るき、ヒトの脳は「具体」と「普遍」との間の往復運動をしている、ということになりそうです。このことは、加賀千代女の「朝顔に釣瓶とられて貰ひ水」についての黛まどかの発言につながります。

朝顔や釣瓶とられて貰ひ水
というのもあるんですよ。(中略)「朝顔や」と「切れ」を入れることで、そこにもう一つ、現実の朝顔とは違う朝顔がイメージできませんか。実際は朝顔の蔓が犯人でもいいのですが、切ることによって、目の前の朝顔ではない別の朝顔つまり早朝に瑞々しく咲く普遍的な朝顔がイメージされるのです。(第二部 ひらめきと美意識――俳句脳対談)

現実の朝顔と、普遍的な朝顔、これを黛は「ダブルイメージ」と呼び、「切れ字」の働きはこの「ダブルイメージ」を作り出すことだと言います。芭蕉の有名な「古池や」の句についても、切れ字「や」が目の前の現実の古池のほかに普遍的な古池を提示するのだと言います。こうした説明が、全ての俳句の「切れ」にあてはまるのかどうか、疑問ではありますが、優れた俳句が「具体」と「普遍」の二面性を併せ持つものであることは確かです。茂木が

「今、ここ」から一瞬のうちに通り過ぎていってしまう感覚を記憶に留め、言葉によって顕現化するというまさに「クオリア言語化」が、俳句という文学なのである。(第一部)

と述べている部分も、「具体によって引き起こされる一瞬の感覚(=クオリア)の普遍化(=言語化)が俳句なのである」と言い換えることが可能でしょう。
では、脳をどのように働かせれば「クオリア」の「言語化」が可能になるのか。ここからが一番興味深いところ、特に俳句を作る人間にとっては大事な部分になるはずです。茂木は夏目漱石草枕を「俳句脳の考察にとっては必読の書」といい、そこからいくつかの箇所を引用しながら「普遍」を見出すための「秘訣」を語っていますが、残念ながらそれだけ読んだのでは俳句を作る現場で具体的にどうしたらよいのかがよく見えてこないのです。
俳句を作った人間でなければ俳句のことはわからない、などと言うつもりはありません。しかし、この本はせっかく黛まどかとの共著という企画なのですから、まず茂木が黛の指導を受けながら俳句をいくつか作ってみて、それから執筆に取り掛かるというふうにしたら、俳句作りの実体験を踏まえた、より興味深い内容になったのではないでしょうか。