文語の咲かせた花

『声に出して読みたい日本語』なる本が大いに売れていたとき、これを買って本当に声に出して読む人ってどれだけいるんだろうか、と不思議に思ったことがあります。音読というのは、やってみると確かに気持ちのいいものだけど。
『俳句』7月号の特集「文語の威力、口語の魅力」の中で、加藤かな文がこんなことを書いています。

日々、文語文を音読する。かなりの声量で音読する。趣味ではない。私は高校の国語教師であり、それが生業なのだ。数学も英語も関係なくこればかりやっているから、生徒よりも断然うまい。きっと少し得意げに読んでいる。(「文語の名句精選18句鑑賞〜罰かもしれない」)

確かに、国語の教師が生徒より圧倒的に優位に立てるのは、何よりも文語文をすらすら音読する能力においてかもしれません。『徒然草』だって、『舞姫』だって、これまでにどれだけ音読してきたことか。これだけは生徒に絶対に負けない。でも、悲しいかな、古文がすらすら読めるからといって、英語をかっこよく操る英語の教師ほどには尊敬されないのが国語の教師のさだめなのです。
さて、加藤かな文という人は、かつて『俳句』の「俳句月評」の連載を担当していた時期があり、僕はいつもそこに取り上げられる魅力的な句とその鋭い解釈を楽しみにしていました。今回の特集の中でも、作品に即しながら文語の持つ魅力について深い洞察を示してくれています。例えば、波多野爽波の「金魚玉とり落しなば鋪道の花」については次のように書きます。

強意の助動詞「ぬ」の未然形〈な〉。文語は、あり得べき主語等の大胆な省略とともに、口語に翻訳しきれない過剰を持つ。金魚玉を鋪道に落とす。〈な〉はそんな妄想の一瞬を焦点化する。そして、緊張感に満ちた美しい幻影が私たちの前に立ち現れる。

字数制限のために簡潔にまとめてありますが、高校の教師である筆者はおそらく頭の中では〈な〉についてあれこれと思考を巡らしたに違いありません。
文語助動詞「ぬ」は、古文学習の初期の段階でぜひ教えなければならない重要語です。対応する現代語がなく、便宜的に「…た」「…てしまう」などと訳すことが多いのですが、微妙な意味合いがうまく伝わりません。あえて口語に訳した「金魚玉をとり落としてしまったならば」と比べてみれば違いは歴然としています。「な」の一語だからこそ、「妄想の一瞬を焦点化する」ことが可能なのです。
また、これも古文学習者にとっての重要事項の一つですが、「未然」とは「未だしからず=まだそうなっていない」なのですから、金魚玉はまだ本当に鋪道に落ちてはいないのです。だから、そこに像を結んでいるのは今は「幻影」に過ぎないのです。しかし、次の瞬間には実像となる可能性を孕んでいるからこそ、「緊張感」に満ちているのです。「…なば」という古文独特の措辞が、これから起こりうる出来事をありありと現前させる働きをしているということでしょう。
加藤かな文は短い説明文の中で、文語独特の働きと詩の不思議に触れつつ、句の深い理解に導いてくれるのです。取り上げられた18句すべてが、文語の咲かせた美しい花であることを納得させてくれます。