モノとしての流星

『俳句界』12月号の中の、ちょっと気になった句、その2。

山頂に流星触れたのだろうか    清家由香里

「2007年『俳句界』銘句歳時記―諸家自選句感銘句」の中の一句です。
これは今年の「俳句甲子園」の個人の部で最優秀に選ばれた句で、どこで読んだか思い出せないのですが、この句が会場で読み上げられたときは会場がどよめいたということです。高校生の句が、現在俳壇で活躍中の俳人たちの自選、他選の句と肩を並べて掲載されているのです。
確かにこの句には、従来の句にはなかなか見出せそうもない新鮮な魅力を感じます。俳句の世界では「流星」「流れ星」というと、空を流れる一点の光として、あるいはこの世のものならぬ観念的な存在として意識されることが多かったのではないでしょうか。


星一つ命燃えつつ流れけり    高浜虚子
流れ星悲しと言ひし女かな     同
星流る疑ふこともなく生きて    山口青邨


ところがこの「山頂に」の句は、確かにこの宇宙に存在し、今地球に近づきつつある質量を持った物体として流星を捉えています。もちろん、ほとんどの場合地球に到達する前に燃え尽きてしまうと言われる流れ星が山頂に触れるという出来事こそ、観念の中の出来事かもしれません。しかし、僕には流れ星がかすめていった痕跡の残る山頂がありありと想像されてならないのです。「触れたのだろうか」という口語による問いかけが、現実に触れたか否かの確認を待つまでもなく、モノとしての星という確固たるイメージを作り出してしまうのです。そしてこのイメージのもたらす詩的感興こそ、星を詠んだ従来の俳句には見られなかった新しさなのではないでしょうか。