太宰治の不幸

太宰治の「走れメロス」を読んだらもっと太宰の作品が読みたくなって、本棚から引っ張り出してきたのはお伽草紙』(新潮文庫、これもまた古典に取材した作品です。

奥付には「昭和52年5月20日十刷」とありますから、買ったのはほぼ30年前になるわけですが、どうやら読まれることなく本棚で眠っていたようです。古典を下敷きにした作品は当時の僕には取っ付きにくいと感じられたにちがいありません。しかし今読んでみると、実に面白い。
新釈諸国噺は、西鶴のもとの作品に肉付けすることによって、登場人物たちにいっそう生き生きとした存在感を与えることに成功した傑作で、短編小説の醍醐味を存分に味わえます。西鶴の語り口調の魅力を損なうことなく、それでいて紛れもない太宰の文章に仕立て直してしまうところは、さすがです。
お伽草紙の方は、太宰治自身が饒舌な語り手となって、はっきりと読者の目の前に姿を現します。この語り手は、空想家であるよりはむしろ批評家です。つまり、昔話をもとに大きく創造の羽を広げるよりは、その昔話の内部へと降りていこうとするのです。そして降りていった先に語り手が見出すのは、現代人に通じる普遍性であり、当然そこには自己自身の内面が重ねられるのです。だから「新釈諸国噺」と比べるともとの作品からは自由になりながら、かえって自分自身からは自由になりえないという皮肉な結果を招いています。それだけ太宰治らしい魅力を湛えた作品になっているとも言えますが、それは同時に、太宰の初期の作品から一貫して見られる息苦しさに覆われているということを意味します。
「浦島さん」の亀の次の語りは、そんな息苦しさに言及したものと言えるでしょう。

私はただ、あなたと一緒に遊びたいのだ。竜宮へ行って遊びたいのだ。あの国には、うるさい批評なんか無いのだ。みんな、のんびり暮らしているよ。だから、遊ぶにはもって来いのところなんだ。(中略)どうも陸上の生活は騒がしい。お互い批評が多すぎるよ。陸上生活の会話の全部が、人の悪口か、でなければ自分の広告だ。うんざりするよ。私もちょいちょいこうして陸に上がって来たお蔭で、陸上生活に少しかぶれて、それこそ聞いたふうの批評なんかを口にするようになって、どうもこれはどんでもない悪影響を受けたものだと思いながらも、この批評癖にも、やめられなぬ味がありまして、批評の無い竜宮城の暮しにもちょっと退屈を感ずるようになったのです。どうも、悪い癖を覚えたものです。文明病の一種ですね。

新釈諸国噺」の方は、そんな批評が奥に引っ込み、上質な娯楽小説になっています。しかし太宰にとって、西鶴の作品世界に遊ぶことは、竜宮城の逸楽をむさぼることにも等しかったのでしょう。そして、「批評の無い竜宮城」にいつまでも留まっていられず、すぐに「陸上」に浮きあがってきてしまうことをどうすることもできなかったのが、太宰という人間の不幸だったのではないでしょうか。

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