珈琲小説

豆大福と珈琲 (朝日文庫)

豆大福と珈琲 (朝日文庫)

 

 古本屋で探して読もうと思っていた片岡義男の『豆大福と珈琲』が、文庫になったのはありがたい。『珈琲が呼ぶ』が売れたからだろう。 さっそく購入。

 片岡義男の小説のファンというのは(僕もその一人になりつつあるのだが)、ちょっと芝居じみたこんな会話を楽しみにして読んでいるのに違いない。村上春樹の小説の中にも出てきそうな、英文和訳っぽい会話。二人の間に保たれている程よい距離感が、読み手に心地良さをもたらす。 

「私が家にいるとき、あの固定電話にかかって来たら、私が出てもいいの?」
「もちろんだよ。なんの問題もない」
と答えた僕は、つけ加えた。
「電話に出たきみが、電話をかけて来た女性から、あなた誰なの? といきなり訊かれるようなことはあり得ないから、安心してくれ」
律子は笑顔で僕を見ていた。その笑顔に促されて、僕は続けた。
「あの電話の呼び出し音が鳴って、きみが出て、かけて来た人は僕に用事で、僕が電話を代わったとき、いまお出になった女性はどなたですか、と訊かれたら、どう答えればいいものか」
「彼女は豆大福です、と言っておいて」
僕は笑った。笑いながら、
「そうか、それなら僕は、珈琲だ」
と答えた。
「ぜひとも漢字で書いてね。珈琲と」 

そう、小説になるのは「コーヒー」ではなくて「珈琲」。 「料理小説」があるなら、「珈琲小説」があってもよい。

 

料理小説

 

定価は1500円(税別)

句集『坊城俊樹句集』

神保町の岩波ホールで映画『12か月の未来図』を見た日、ついでに古本屋街を冷かして歩いていたところ、山吹書房の店先のワゴン内に潜伏していた『坊城俊樹句集』を発見、300円にて捕獲。


 一本の棒は蝮となり死ねり
 どの顎も鮭の顎して遡る
 日銀の壁に凭れて悴める
 凍蝶か凍蝶の死か吹かれあり
 もの音を持たぬ熟柿の置かれけり
 秋のプールに象さんの如露ひとつ
 たまげだなあ振り向いだなら雪女
 寒き電線絡み入るスナック純

表現の連鎖の面白さ

知ってる古文の知らない魅力 (講談社現代新書)

知ってる古文の知らない魅力 (講談社現代新書)

 

文学作品は、過去の作品表現の集積によって成り立っている。すぐれた作品はその上に新しい価値を付与したものだ。 

  あるいは、

すぐれた文学作品が生み出されると、それが新たな規範となって、後代の作品表現の形成に影響を及ぼす。 

 ということを、具体的な作品を取り上げながらわかりやすく説いている。例えば、『徒然草』の序文「つれづれなるままに…」は有名だが、それより前に書かれた作品の中に、こんなくだりがあることは知らなかった。

つれづれに侍るままに、よしなしごとども書きつくるなり。『堤中納言物語

つれづれのままによしなし物語、昔今のこと、語り聞かせ給ひしをり、…『讃岐典侍日記』

この本は、学習院大学での「日本文学史概説」での講義内容をそのまま書籍化したものだそうだ。高校の古文の授業は、細かい文法事項を突っつきながら、現代語訳を完成させることが中心になってしまい、そこまでで終わってしまいがちだが、本当はこういう授業ができると面白いのだろう。

もっとも、高校レベルでのそういう地道なお勉強という下敷きがあって、初めてこういう本を楽しめる、とも言えるのだろうが。

教科書にいかが?

 白楽駅近くの古本屋「Tweed Books」にて300円で購入した、アーサー・ビナード空からきた魚』(集英社文庫)を読んだ。 

空からきた魚 (集英社文庫)

空からきた魚 (集英社文庫)

 

  アーサー・ビナードのエッセイ集は、以前に『出世ミミズ』と『日々の非常口』を読んでいるが、書かれたのはこちらの方が先らしい。この本も自転車の話だったり、俳句や短歌が織り込まれていたり、なかなか楽しい。俳句についてはこの時点ですでにかなりの精進を積んでいることがわかる。


  湯豆腐のだれもいなくなり昆布残る
  年の市ティッシュを配るサンタいて
  海亀や浜を耕しつつ進む


 短歌もたくさん出てくる。たとえば、「さらば新聞少年」の冒頭に掲げられているこんな歌。


  新聞の勧誘くれば日本語のニの字も知らぬガイジンとなる


 アーサー・ビナードの文章は、中学や高校の国語の教科書には採られていないのだろうか? この「さらば新聞少年」なんか、中高生に読ませるのにいい文章だと思うけど。上の短歌のあと、文章はこのように続く。

 この手口はぼくの、いってみれば一種の特権だ。新聞に限らず、その他もろもろの勧誘に対しても効力を発揮する。けれど、新聞勧誘を題材に詠むことにしたのは、その相手がほかよりどこか身近に感じられるからだろう。 

 このぼくも、実は高校生のころ、オハイオ州で新聞配達をやっていた。…

 

映画の限界

今日から岩波ホールで始まった、『12か月の未来図』を観てきた。f:id:mf-fagott:20190406214437j:plain

僕の知っている教育現場のリアルとはかけ離れた世界。現実の教育困難校の子供たちやその家庭はもっと複雑で難しい。映画というのは現実を単純化し、美化してしまうものらしい。興行として成り立たせるためには、笑える場面、泣ける場面、刺激的な場面は必須なんだろう。そしてほろ苦く余韻を残す最後のシーン。ドキュメンタリー映画ではないので、割り切って楽しむべし。

前橋文学散歩の下見

前橋は萩原朔太郎の生地。

電車を降りるとすぐに上毛かるたが出迎えてくれる。早くも文学散歩気分。

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駅を出て、欅並木をずんずん進むと、広瀬川にぶつかる。

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広瀬川に沿って整備されている「広瀬川詩(うた)の道」には、詩碑が点在する。

 

 廣瀬川白く流れたり
 時さればみな幻想は消えゆかん。

 われの生涯らいふを釣らんとして
 過去の日川邊に糸をたれしが
 ああかの幸福は遠きにすぎさり
 ちひさき魚はにもとまらず。 (朔太郎「広瀬川」より)

 

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谷川俊太郎、吉原幸子、辻征夫、清水徹男……皆、萩原朔太郎賞を受賞した作品。

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目的地の一つだった近代文学館はなんと休館日。

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「残念だったね、またおいで。」と朔太郎。「じゃあ、今日は下見ということで、また来ますよ。今度は仲間を連れて。」朔太郎と別れて、次の目的地へ向かう。

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大きな橋で利根川を渡ったところに山村暮鳥の詩碑がある。持っていた地図が不正確で、一時間近く探し回ってしまった。山村暮鳥と言えば、「おうい 雲よ」が有名だが、刻んであるのは次の詩。

 

 淙々として
 天の川がながれてゐる
 すっかり秋だ
 とほく
 とほく
 豆粒のやうな
 ふるさとだのう (詩集『雲』より)

 

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前橋駅構内の土産物屋で、朔太郎が愛したというお菓子を買って帰る。いや、朔太郎が愛したのは広瀬川の方か? 

僕が線を消して処分する本①

 本を処分しないと、置き場所がいよいよなくなってきた。
 本の処分は大変だ。まず、どの本を処分し、どの本を取っておくべきか、判断が難しい。散々迷ったあげく、古本屋に出すを決断して段ボール箱に入れた本を、思い直してまた本棚に戻してしまうことも多い。だから時間ばかりかかって、なかなかはかどらない。
 処分すると決めた本は、中身をチェックして、鉛筆で線を引いてある部分が見付かると、そこを読んでから、消しゴムで消す。僕は本に線を引いたり書き込んだりするときは、必ず鉛筆。古本屋に引き取ってもらえないと困るということもあるが、本にペンで線を引くことには抵抗があるのだ。(以前は手作りの蔵書印を押していたこともあったが、それも今はやらない。蔵書印のある本は引き取らないとはっきり言っている古本屋もある。)
 そんなわけで、本の処分には時間がかかる。

 今日は、河合隼雄の『カウンセリングを語る』の上下二巻を処分すると決め、線を消す作業をした。僕は一時期、ずいぶんカウンセリング関係の本を読んだ。今でも興味はあるのだが、もうこの先この本を読むことはないだろう。
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 線は、こんなところに引いてあった。 

 この中に学校の先生がおられましたら、自分のクラスの中に必ずあなた方が限界に挑戦して、前よりも少しよい先生になるために送り込まれてきた生徒がいることに気づかれるはずです。ところがだいたいはそうは思わなくて、なんでああいう問題児が私のクラスにいるのかと思って、いやになってそれを排除してしまうことが多いわけですが、実はそうではなくて、その問題児と言われている子供と格闘することによって、われわれが成長していくわけです。