近代美術館のさきがけ

日本近代洋画と神奈川県立近代美術館』は、今から36年も前に発行された本で、当時はまだ鎌倉の別館が建設予定という段階。鎌倉の本館が既に閉館となってしまった今では、本書のガイドブックとしての役割は終わっているのだが、日本の先駆的な近代美術館の一つとして果たしてきた役割について知ることは、展覧会をより深く楽しむことにつながる。

この美術館を代表する「この一点」として、萬鉄五郎の「日傘の裸婦」をあげ、その作品を解説するとともに、萬鉄五郎の足跡をたどる前半部分は、萬鉄五郎ファンとしての僕にとっては特に興味深かった。

 

芸術の本質に届く名著

  高階秀爾の『続 名画を見る眼』は名著だと思う。山本健吉の『現代俳句』が名著であり、深田久弥の『日本百名山』が名著であるのと同じ意味合いにおいて。 

続 名画を見る眼 (岩波新書 青版 E-65)

続 名画を見る眼 (岩波新書 青版 E-65)

 

   『現代俳句』は、虚子、子規をはじめとする主要俳人の名句を鑑賞しながら、俳句の核心に迫る。『日本百名山』は、日本を代表する山の紹介文であるにとどまらず、山登りという行為のもたらす心のときめきを存分に読者に伝えてくれる。『続 名画を見る眼』は、モネ以降の14人の画家の代表作について解説しながら、絵を見ることの面白さを教えてくれるばかりでなく、随所で詩や音楽という他ジャンルをも含む芸術の本質に触れようとする。
 そして、『現代俳句』が、『日本百名山』がそうであるように、『続 名画を見る眼』の文章もまた、名文である。明晰で、時に詩情をも湛えた文章は、絵を見る喜びを余すところなく読者に伝える。

 白いドレスを身にまとい、パラソルを指して丘の上に爽やかに立つ若い女性を描き出したこの作品においても、画面の隅々にいたるまで、明るい光が溢れている。それは、開け放たれた窓から遠慮がちにはいりこんで、シャンデリアや卓上の静物の上に静かに結晶するフェルメールの光ではなく、もっと自由奔放に拡散し、反射しながら、世界全体を浸してしまうような光である。
 白い雲の浮かぶ夏の空は、底知れぬ光の海のように遠くに拡がっている。パラソルをさす女は、今その空から舞い降りたかのように、白い豊かな衣装の裾と麦藁帽をおさえる青いスカーフを風に靡かせながら、草原の間に軽やかに立つ。(モネ「パラソルをさす女」)

 

知識か、感性か、

宮下規久朗の『美術の力』を読んだ。 

美術の力 表現の原点を辿る (光文社新書)

美術の力 表現の原点を辿る (光文社新書)

 

雑誌や新聞に掲載された記事を集めて編んだ本で、古代壁画から森村泰昌まで、取り上げた作品は幅が広い。かといって散漫な印象を受けることはなく、読んでいるうちに本全体を緩く括るテーマが見えてくる。その一つが美術の持つ宗教性だ。筆者は、

真に優れた美術はつねに宗教的であり、美術と宗教は実は同じものなのだ。(近代美術と宗教)

と言い切る。だから、モランディの魅力を次のように語るとき、宗教という言葉は一切使わないけれども、筆者はその宗教性を思っているに違いないと感じる。

絵画とは何か、絵を見るとはいかなることなのかということまで考えさせてくれる。どの作品も一見寂しげで孤独を感じさせるが、じっとみているといつしか温かいものがこみ上げてくる。いつも一人でじっくり見ていたい作品群だ。(モランディ芸術の静けさ)

もう一つ、筆者の問題意識は次のような一節によく表れている。

美術を見るということは、感性だけの営為ではなく、非常に知的な行為なのだ。知識があればあるほど作品の意味や機能、作者や注文主の意図がわかって深く鑑賞できる。知識があって鑑賞の邪魔になることはありえないし、知識を軽視して、自分の感性や好き嫌いだけで見ても、ほとんどの美術作品は何も語りかけてくれないだろう。(モチーフとしぐさ)

 このことと関連して、僕の関心を引いたのは、かつて日本に「自由画教育運動」というものがあったという事実だ。これは子供に「感じたまま自由に描かせる美術教育」で、「大正デモクラシーの民主的な風潮」の下で日本中に広がり、その理念は現在の学習指導要領にも明瞭に残っているのだという。
この運動について、筆者は「日本の美術に負の効果をもたらしてしまった」と強く批判する。

現在の美術教育においては模写はほとんどなされないが、書道と同じく、手本から入らなければ技術も習得できず、自分の様式も確立できない。創造や個性はいつも模倣から生まれるのだ。

(中略)

本の学校教育の中には、美術作品をどのように見るかを教える「美術史」という科目がない。そのため、美術というものは好き嫌いで見ればよく、色や形の美しさを感じるだけでよいという誤解が社会に蔓延してしまった。
美術とはそのような趣味的なものではなく、文字と同じく、感性だけでなく、知性に働きかけるものでもある。作品の意味や機能、作者や注文主の意図などの知識があれば、鑑賞を深めることができるのだ。(クレパスと日本の近代美術)

 美術作品との向き合い方に関して、先日読んだばかりの椹木野衣『感性は感動しない』とは、ちょうど正反対の意見が展開されているように思われた。椹木野衣の主張を残念ながら僕は十分に理解することはできなかったが、この宮下規久朗の考え方の方には同意できる。これは美術に限ったことではない、音楽にも、文学にも、言えることだろう。

フィリップス・コレクション展

三菱一号館美術館で開催中の展覧会、「フィリップス・コレクション展」を観てきました。

コレクターの業績という観点から作品を収集した順に並べて見せるという企画も、なかなか面白いと思いました。僕好みの絵にたくさん出会えて満足です。ボナール、ヴュイヤール、モランディ……

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今回は隣の家のコータロー君の声が聴けるというので、音声ガイドも借りてみました。コータロー君、なかなかいい声でした。

問いを見つける

 『考えるとはどういうことか』(梶谷真司著、幻冬舎新書)を読んだ。 

  筆者が実践しているという「哲学対話」というものに、とても興味がある。自分もそのメンバーの一人として参加できる機会があれば、ぜひ参加してみたいと思う。詳しく説明してくれているのでだいたいのイメージは掴めるが、やはり実際参加してみなければわからない部分もあるだろう。
 しかし、型通りの「哲学対話」を行うというのでなくても、その考え方を授業の中に生かせないか、とも思う。「問い」を見つけることは大事だと教室では毎回のように言っているが、生徒自らが良い問いを見つけ、そこから自発的な学びにつなげていくというのは、なかなか難しいことだ。

教科書に出てくる問いを見て、「これこそ私が考えたかったことだ!」と思う人は、おそらくただの一人もいないだろう。そのように押しつけられた、興味もない問いを「解く」ことは、考えることではない。考えさせられているだけで、強いられた受け身の姿勢を身につけるだけである。(太字は原典では傍点、以下同じ)

  「考えさせられている」生徒はまだ良い方で、多くの生徒は最後には教師が答えを示してくれるだろうと考えずに辛抱強く待っている。そうなると、教師も「答え」を示さざるを得ない。では、どうしたら良いのか。

考えるには、考える動機と力がいる。自分自身が日ごろ、疑問に思っていることはつい考えたくなる。考えずにはいられない。こういう考える力をくれる問い、つい考えたくなる問い、考えずにはいられない問い、それが自分の問いであり、そうした問いを問うのが、自ら問うことである。…

自分で見つけた問いは、考えるのも楽しいし、自分でついつい考えてしまう。

  本書には、自分で問いを作り出す具体的な方法も多数示してくれている。問いの質が高まれば、そこから思考は動き出すという。この本をヒントに、生徒が主体的に考える授業のあり方をこれからも模索していきたいと思う。

図書館の蔵書検索機能は便利だ

片岡義男の小説を読んでみようと思った。とりあえず最寄りの図書館にあれば借りようと思って、横浜市立図書館の蔵書検索ページで探しているうちに、わざわざ図書館まで出かけなくても、家にある本の中にも片岡義男の短編小説を収めたものがあることがわかった。今年の夏に古本屋で買って、拾い読みしていた文庫本『夏休み』(千野帽子編)だ。これは夏休みをテーマにして編まれたアンソロジーで、11人の作家の作品が収められているが、その中に確かに片岡義男の短編小説もあった。「おなじ緯度の下で」だ。これが僕にとって初めて読む片岡義男の小説ということになった。

夏休み (角川文庫)夏休み (角川文庫)

 

 それにしても、図書館の蔵書検索機能というのは、とても便利で、図書館の本を利用しようとするときだけに役に立つのではないことがわかった。例えば、ちくま文庫に『なんたってドーナツ―美味しくて不思議な41の話』という本がある。その41の中身は筑摩書房のホームページを見てもすべてはわからない。目次の一部が紹介されているだけなのだ。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480432186/
ところが、蔵書検索で調べると、41の文章の題名、筆者名がすべてわかる。その中に、片岡義男の「ドーナツの穴が残っている皿」がある。堀江敏幸荒川洋治村上春樹長田弘いしいしんじといった名前も見つかる。それぞれがどんなことを書いているのか、読みたくなってしまう。

コーヒーと過ごす時間

   『珈琲が呼ぶ』は、『コーヒーが呼ぶ』ではいけなかったのだろう。それでは本の売り上げが何割かは下がるという判断があったかもしれない。本文中では(「スマート珈琲店」のような店の名前は別として)「珈琲」は出てこなかったと思う。たぶんすべて「コーヒー」だ。日本語の表記法の豊かさ、複雑さ、微妙さを思う。

珈琲が呼ぶ

珈琲が呼ぶ

 

この本は、コーヒーについて書いてある本ではなくて、コーヒーが出てくる本だ。コーヒーを飲む場面が出てくる映画や漫画の話、歌詞の中にコーヒーが出てくる洋楽の話、著者がよく行った喫茶店の話。どの話の中でも、どこの産地のコーヒーが苦いとか、酸味が強いとか、どうやって淹れたコーヒーが旨いとか、コーヒーの味についての蘊蓄などは一切語られない。その点では徹底していると言える。

極論してしまえば、著者にとってコーヒーの味はあまり問題ではない。どういう状況で飲んだか、つまりどこの喫茶店のどこの席で(どんな椅子で)飲んだか、飲みながらどんな原稿を書いたのか、誰と一緒に飲んだのか、その誰かとどんな話をしたのか、つまりはコーヒーと共にどんな時間を過ごしたかが問題なのだ。だから、インスタント・コーヒーだってコーヒーのうちだ。インスタント・コーヒーの出てくる「砂糖を入れるとおいしくなるよ、と彼は言う」や「『よくかき混ぜて』と店主は言った」などは、実に味わいの深い魅力的な文章だ。

実は僕にとって、片岡義男はこれが初めての本だ。独特の硬めの文体は、慣れると癖になるようだ。コーヒーを飲みながら、もっと他の片岡義男を読むとしたら、何が良いのだろう。