国語の問題の問題

   紅野謙介国語教育の危機―大学入学共通テストと新学習指導要領』(ちくま新書)を読んだ。読む前から、書名を見ただけで内容が想像できてしまう。「大学入学共通テスト」について多くの大学が不安をいだいていることは、新聞でも報じられている通りだ。

https://www.asahi.com/articles/DA3S13714259.html

 本書は、既に公開された「サンプル問題」および「試行調査(プレテスト)」の国語の問題をつぶさに検討し、その問題点を指摘している。
 「新学習指導要領」のねらいを先取りする意図で作られた試験問題は、複数の文章(資料)にまたがった設問を用意しなければならないという要請に応えるべく、非常に無理をして作られたようで、この問題を解くことにどれほどの意味があるのかと疑わざるを得ないものが多い。また、短時間で多くの資料に目を通して答えを導き出さなければならない受験生の戸惑いは大きいに違いない。実際、プレテストの中には非常に正答率の低かった設問もあり、これで受験生の力を図るという機能を果たすことができるのか、はなはだ怪しい。

 筆者の批判は手厳しい。 

大学入試センターで英知を集めた結果がこのとおりです。サンプルの試験問題が困難であるならば、全国の高等学校で展開される定期試験や実力試験でも苦しいことになるのは目に見えています。実現の可能性と持続の可能性のきわめて薄い試みに、大学入試センターは無理やりチャレンジしているのではないでしょうか。

 大学入試問題は、高校生にこのような力をつけてほしいという指標になるものだから、我々国語の教師も日頃の授業の指針として常に意識している。本当に「プレテスト」のような試験が実施されるとしたら、授業の中でどのように対応すべきか、戸惑うばかりである。

 

論理とハラ芸

高校生のための論理思考トレーニング (ちくま新書)

高校生のための論理思考トレーニング (ちくま新書)

 

  西洋文明と遭遇した明治の知識人は、西洋由来の抽象概念のほとんどに漢語を当てはめて、英語の翻訳としての現代文を作った。しかし、日本語が完全に英語化したわけではない。和洋折衷、和魂洋才である。英文にはあるロジックは、日本語の現代文にはない。日本語では、言いたいことは言葉にせず、察してもらう。つまり、日本語によるコミュニケーションは「ハラ芸=テレパシー」である。だから、英文の読解を通して論理思考のトレーニングをしても、それをそのまま日本語の現代文の読解に応用することはできない。現代文の参考書なども、「論理的読解」を標榜しながらも、曖昧な方法論しか提示できていない。
 では、国語力の養成のためにはどうするべきか。論理思考のトレーニングは英語の教師が行う。国語の教師は、明治から昭和までの美しい日本語を音読、あるいは書写するなどして、身体知として身につけさせる。これによって、ハラ芸(ホンネ)とロジック(タテマエ)の使い分けという、目指すべき本来の国語力が身に着くのである。


 …と、著者が述べていることをまとめてみたが、どうもしっくりいかない部分もある。英語の「論理」は筆者が言うように(「あとがき」p.213)、日本語の「察し」や「ハラ芸」を「蹂躙」するものなのか? 両者は相いれないものなのか? 「察し」に近い言葉に「行間を読む」というのがあるが、英文では行間を読むということはないのか?
 誰か、教えてください。

受験英語は実用英語

 大学を受け直そうというわけではないが、高校生向けに書かれた『完全独学! 無敵の英語勉強法』という本を読んだ。
 大学受験の頃の英語力が、その後どんどん落ちていくのはもったいないと思いつつも、英語を本気で勉強する必要に迫られることなく、40年以上も経ってしまった。逆に少しずつでも勉強していれば、今頃は相当な英語力が身についていたかもしれないのに。
 英語を使えなくて困ったという経験はないのに、英語が気になっているのには、理由がある。一つは自分が英語が話せないために、消極的になってしまっている場面があるのではないか、英語を聞き取ったり話したりする力がつけば、もっと世界が広がるのではないかという思いがあること。もう一つは、純粋に語学は面白いということだ。大学受験の英語をいやいや勉強したという記憶はない。
 だからこんな本に惹きつけられる。何も高校生向けの本を選ばなくても、オトナのために書かれた英語の本はいくらでもあるのだろうけれど、「受験英語こそ、日本人にとっての正しい英語修得への唯一最短の道」だという主旨で書かれたこの本は、受験生だけに読ませておくのはもったいないのだ。
 この先一番役に立つだろうと思ったのは、英語の文章が「森のロジック=三角ロジック」と呼ぶべき論理構造で支えられているということ、文章を構成するひとつひとつの英文には、「木のロジック(そのカギが5文型)」が働いているということだ。これについては、同じ著者による『高校生のための論理思考トレーニン』(ちくま新書)に詳しいそうなので、ぜひ読んでみたい。
 もし、高校生だった僕がこの本を読んでいたら、もっと受験勉強の能率が上がったかもしれないし、大学受験が終わっても英語の勉強を地道に続けていたかもしれない。「ちくまプリマー新書」のある今の高校生がうらやましい。

能動的な読みとしての翻訳

翻訳教室―はじめの一歩 (ちくまプリマー新書)

翻訳教室―はじめの一歩 (ちくまプリマー新書)

 鴻巣友季子著、『翻訳教室―初めの一歩』を読んだ。
 この本は、NHK総合テレビの「ようこそ先輩 課外授業」という番組での実践をもとに書かれたもので、その授業のすばらしさが、そのままこの本自体の出来の良さにつながっている。
 著者は、小学6年生にシルヴァスタインの『The missing Piece』という絵本を翻訳させるという授業を行う。まだ英文法の初歩も知らない小学生は、ときには見当違いな「名訳」をひねり出すのだが、著者は小学生の「名訳」に至るまでの思考過程を「能動的な読み」として評価し、どの生徒の読みにも高い評価を与える。
 So fast that it could not stop to talk to a warm
を「ミミズと話したいのに、速すぎて止まれないから話せない」と訳したチエさん(仮名)の答えに対しては、

「to」の訳し方がさり気なくうまいなあ、と思います。to不定詞の副詞的用法が入っていますが、これはなんでもかんでも「〜するために」と紋切型で訳すことはないのです。「立ち止まって話すこともできない」と前から訳しおろしてもいい。でも、チエさんはもっと上手でした。

とほめる。とにかく鴻巣先生は、ほめ上手だ。こんな授業が小学生にとって楽しくないはずがない。生徒たちの生き生きとした表情が浮かんでくるとともに、読者には文章を深く読むこと(精読)の面白さ、つまり翻訳することの面白さが実感をもって伝わってくる。
 翻訳とは、学校の英語の時間にたたきこまれる「英文和訳」、つまり原文に忠実な逐語訳とは異なる能動的で創造的な営みであること、それは著者と読者との対話であり、異文化とのコミュニケーションであることを教えられる。ぜひたくさんの人に読んでもらいたい良書だ。

絵をもっと楽しむために

 池上英洋の『西洋美術史入門<実践編>』を読んだ。

西洋美術史入門・実践編 (ちくまプリマー新書)

西洋美術史入門・実践編 (ちくまプリマー新書)

 同じ著者の『西洋美術史入門』の続編という位置づけにはなっているが、この一冊だけでもとても興味深く読める。美術作品をより客観的に、より深く理解するための方法として、どういうことを学ぶべきかという内容で、研究者を目指す若い読者をも想定した本ではあるが、一般の美術愛好家が十分楽しめるように、具体的な作品を取り上げながら、わかりやすく書かれている。
 一つの美術作品は、アトリエという閉じられた空間の中で、芸術家の個人的な精神活動の成果として作り出されたものなのではない。それは、その時代の価値観、宗教観、政治状況などと深く関わりながら生み出されたものであるので、それらの関りがわかれば、その絵がそう描かれていることの意味も分かって、より作品理解が深まることになる。
 色がきれい、構図が面白い、といった、自分の感性だけに頼った主観的な鑑賞者であり続けることで満足できる美術愛好家はおそらくいない。この絵のどこが面白いのだろうと疑問を感じつつ、長くは立ち止まらずに通り過ぎてしまう絵が、展覧会場には必ずあるものだが、高い入場料を払ったのだから、どの絵からも面白さを感じたいというのが、美術愛好家の偽らざる気持ちだ。
 絵は、「鑑賞」されることを求めるだけでなく、それについて「学ぶ」ことも要求する。その点、音楽の鑑賞はもっと感覚的なレベルで行われているような気がする。その曲の成立事情や、用いられている技法に関する知識を得たことによって、それを聴く感動が一層深まるということは、あまりないように思う。一般向けの啓蒙書も、音楽よりは絵についてのものの方がずっと多いのではないだろうか。
西洋美術史入門 (ちくまプリマー新書)

西洋美術史入門 (ちくまプリマー新書)

飢ゑし啼く海猫に日増しの北風嵐


 礼文島の岬巡りコースというハイキングコースは、北の端のスコトン岬から始まる。強い風に抗うように歩き始めて30分ほどの見晴らしの良い丘の上に、上村占魚の句碑がある。「海猫」は「ごめ」、「北風嵐」は「きたあらし」と振り仮名がふってある。
 「米の香の球磨焼酎を愛し酌む」と詠んだ占魚は熊本生まれだが、九州から遠く離れた北の果ての礼文島を何度か訪れたらしい。おそらく占魚は、礼文の句を多く詠み、この句はその多くの中から選ばれたのだろうが、碑が建つほどの句なのだろうかと考えてしまう。(いや、句碑なんて常にそんなものか…)「飢ゑし啼く海猫」は文法的にはどうなんだろう。

地方を元気にする

 伊東豊雄のことを知ったのは5年前の夏。レンタカーに妻と娘を乗せてしまなみ海道を走り、大三島で降りたはいいけれど、何の下調べもしていなかった僕たちは行き当たりばったりに行き先を決めるしかなく、面白そうだというのでとりあえず寄ってみたのが大山祇神社伊東豊雄建築ミュージアムだった。大山祇神社の巨木に気圧されそうだった印象と、ミュージアムから瀬戸内海の穏やかで明るい景色を眺めながら、こんなところで暮らすのも悪くないなあと思ったことは、今でも記憶にはっきりと残っている。
 伊東豊雄が何を目指しているか、繰り返し現れる次のような発言がそれを明らかにしている。

私は、これからは都市に向かって自らの個性や表現を競い合うような建築の時代ではないと考えます。とくに若い人にそう伝えたい。一つひとつのプロジェクトは小規模で地味であっても、みんなが小さな力を結集して、人びとが暮らす場所や地域をいかに楽しい環境にするかが問われているように感じています。大都市が魅力的であった時代はすでに終りを告げ、地方にこそ新しい建築のかたちを探るヒントがあるに違いないと考えるようになったのです。

 伊東豊雄が選んだ「地方」の一つが大三島だ。
 伊東豊雄大三島での活動は、〈第四章 建築の始原に立ち返る建築――愛媛「大三島を日本でいちばん住みたい島にする」プロジェクト〉に詳しく紹介されている。大山祇神社の参道を活性化させるなど、さまざまな活動の拠点となるのがミュージアムだ。

ミュージアムは私の名を冠していますが、私の作品を展示するのではなく、伊東建築塾の塾生を中心に、島民や大学の建築学科の教授や学生と一緒に取り組むプロジェクトの発表の場と位置付けています。毎年、個別テーマを掲げて調査研究を行って、それを基に考えた、島を元気にするための提案をパネルや映像、模型で展示するというものです。ミュージアムに来てくれた多くの人に大三島の魅力をわかってもらって、島づくりを応援していただきたいと考えています。

 もう一度機会があれば、今度は自転車でしまなみ海道を走り、元気になった大三島の様子を見てみたい。

大山祇神社

伊東豊雄建築ミュージアムからの眺め