横浜シティ・シンフォニエッタ第35回 演奏会参加者募集!


横浜シティ・シンフォニエッタ(YCS)では、2019年3月23日(土)の第35回演奏会に参加していただけるメンバーを募集しています。小さなオーケストラでのエキサイティングな合奏にあなたも参加してみませんか?

詳細はこちらをご覧ください。
https://ykc-sinfonietta.jimdo.com/演奏会参加者募集/

利尻・礼文


 憧れの地だった利尻、礼文に行って来ました。それも、運よく好天に恵まれて、最高の山旅でした。企画してくれた山仲間に感謝です!
 深田久弥の『日本百名山』は、最北に位置する利尻をまず最初に掲げています。その書き出しはこうです。

礼文島から眺めた夕方の利尻岳の美しく烈しい姿を、私は忘れることができない。海一つ距ててそれは立っていた。利尻富士と呼ばれる整った形よりも、むしろ鋭い岩のそそり立つ形で、それは立っていた。岩は落日で黄金色に染められていた。

 確かに礼文から眺めた利尻の美しさには目を奪われます。とりわけ、前の日に苦労してその頂に立った者にとっては、それは格別の存在としてそそり立っているようです。田中澄江は『花の百名山』の「利尻山」の項で、こう書いています。

稚内から飛行機で礼文島に着き、礼文岳に登って翌日、鴛泊について一泊。早暁の午前二時に宿を出た。稚内にもどる船は午後三時に出帆である。十二時間だけの許された時間で、利尻の中腹にある長官山までゆければよいと考えた。かつて一人の北海道長官が、部下たちと利尻に登山し、長官山まで達して引返したという。大変ふとっていたひとのようで、その志は称賛に値すると「利尻礼文国立公園昇格記念アルバム」に書かれている。

 もちろん、長官山という名は、長官がそこで引返したことに因んで後からついたのでしょう。今ほど快適な装備もなく、登山道も整備されていなかったであろうことを考えれば、山頂に至らなかったにしても、その頑張りは「称賛に値する」と言えるでしょう。その鴛泊からのルートについて、深田は「行程は長いが楽なので、今でも一番多く利用されている」と書いていますが、「楽」というのは他のコースよりは比較的安全という意味であって、体力的には決して楽とは言えません。僕たちは、山麓のキャンプ場を朝4時少し前に出発、戻ってきたのは午後3時近く、テントをたたんでさらに下のキャンプ場に移動するのに1時間近くかかっていますから、たっぷり一日を費やして山頂までの長い距離を往復したことになります。しかし、苦労して登った者だけに用意された山頂からの眺めは、素晴らしいものでした。稜線から海を見下ろすという経験は、この山でしかできないのではないでしょうか。
 長官山あたりから見る利尻岳

 利尻岳山頂近く

 ペシ岬から利尻岳

 礼文島から利尻岳を望む

 花の礼文島

花の百名山 (文春文庫)

花の百名山 (文春文庫)

プールの匂い

教室にプールの水の匂ひ来る   茨木和生

 プールを詠んだ名句はいくつもありますが、これはその中でも好きな句の一つです。
 今年度は、現代文の授業で毎時間、俳句を一句ずつ黒板に書いて紹介しています。そして、今日の一句がこの句でした。
 水泳の授業のはじまったプールのカルキ臭い独特の匂いが、開け放たれた窓から教室の中まで漂ってくる、ああ、今年も水泳の授業が始まったんだなあ。そんなふうに僕はこの句を理解していました。ところが、生徒に聞いてみると、小学校でも中学校でも、プールの匂いが教室まで漂ってきたという経験はないと言います。(今、僕が勤めている学校は、プールと校舎がかなり離れているので、カルキの匂いが届くことはありません。それよりも隣の動物園から動物の鳴き声が聞こえてきます。)そして、一人の生徒が言いました。
「この句は、水泳の授業を終えた生徒たちが、まだ濡れた体にプールの水の匂いをプンプンさせながら、教室に戻ってくる、そういう意味なんだ。」
 なるほど! そういう解釈で改めてこの句を読んでみると、その方が句が生き生きと感じられてくるようにも思えてきます。水泳の授業を終えたばかりの軽い興奮を湛えた生徒たちが、ワイワイと教室に戻ってくる情景。なんだか、この句はもともとそういう場面を詠んだ句だったのではないかと思ってしまいます。

どんな本か「予測」してみる

 このブログは通常は読み終えた本(時には読みかけの本)に関して書いていますが、今回はこれから読む本(石黒圭「予測」で読解に強くなる!』)について書きます。まだ全く中を開いていない今の段階で、こんなことが書いてあるのではないか、という「予測」に基づいて書くわけです。
 どんな予測かというと、この本には、僕が現代文の授業で一年間繰り返し生徒たちに言っていることと重なる内容が書かれているのではないか、という予測です。
 僕が授業で繰り返すのは、文章の中に「問い」と「答え」を見つけ出せ、そのために、まず題名に注目せよということです。
 例えば、「ウサギの耳はなぜ長い?」という評論文の場合は、題名が既に問いの形をしているのでそれを見つけるのは簡単で、その答えが本文中のどこかに出てくることを予測して読み進めよう、ということを確認します。
 「「迷う」力のすばらしさ」というエッセイの場合もまず題名に注目です。「迷う」という、普通はマイナスのイメージを持つ言葉がなぜ「力」と結びつくのか、そしてなぜそれが「すばらしい」のか、という問いを引き出し、その問いに対する答えが提示されるはずであることを予測するのです。中には、「時間をかけて迷っているうちにいろいろな経験をして何かを得ることにつながるから、すばらしいんだ」というような、ほぼ正解を予測してしまう生徒もいます。そんな場合は、「では、その予測通りのことが書いてあるかどうか、読み進めて確認しよう」と言って、本文を読み始めます。
 もちろん、予測の手がかりは題名だけではありません。例えば文章中に「しかし」が出てきたら、次に筆者の主張が述べられる合図だと思え、というのも予測の一つです。他にも、文章中には次の展開を予測させる様々な手がかりがあり、その手掛かりを意識的に掴めることが読みのスピードや深さにつながります。
 小説の場合も同様です。例えば漱石の『こころ』の場合、Kの「覚悟ならないことはない」というせりふが出てきたところで、Kの「覚悟」とはどういう覚悟か、という問題意識をもたせ、さらにその答えを予測させてから読み始める。これはほとんどの教師がやっていることだと思います。ただ漫然と読み進めるよりも、問を立ててその答えを見つけるという意識をもって読んだ方が、能動的な読みとなり、よりスムーズな理解につながりますが、さらにその答えを予測してその予測を検証するという意識で読んだ方が、さらに能動的な読みとなり、読みの深まりにつながっていくのだと考えています。
 この本には、そんなことが書いてあるのではないか、そして、もちろんそれだけでなく、僕にとっては新発見になるような専門的な知見にも出会えるのではないかという、希望的な予測をもってこの本を読み始めようとしているわけです。

予測は行間の存在を知る手がかりとなり、行間を埋める方向性を示してくれるものですが、行間を埋める具体的内容は読み手自身が決めます。第二章で述べたように、文章理解は、文章を介した読み手と書き手の疑似対話です。対話ですから、読み手が変われば対話の内容も変わりますし、変わってよいと思います。
 大切なことは予測を通して行間の存在に気付くことです。行間の存在に気づき、その行間を埋める工夫をしはじめた瞬間から、書き手との対話が始まるのです。
 「深める予測」では足りない情報を知りたいという気持ちが、「進める予測」ではつぎの展開を知りたいという気持ちが、予測という形で現れます。読み手が予測をする背後には、続きを知りたいという衝動があるのです。その衝動が強ければ強いほど、その文章から目を離せなくなっていきます。
 そこで、文章を書くにあたって「謎」が大切になってきます。文章理解とは問題解決過程、すなわち「謎」を解く過程だからです。
 (「第五章 予測の表現効果とは?」より)

大迫、パねえ?

 「大迫半端ないって!」が流行語になるとか、ならないとか、そんなことどうでもいいけど、次の試合でも誰かが半端ない活躍を見せてくれることを期待しよう。
 で、今日、原田マハの『生きるぼくら』という小説を読んでいたら、こんなセリフが出てきた。

「まじっすか。すげえ。じゃあ、もう引きこもり克服したってことじゃないっすか。すげえ。まじ、パねえ」

 セリフの主は田端純平、東京の私立大学の4年生。就職活動にことごとく失敗中。こんな日本語使っているようじゃあねえ…って感じの軽薄人間。(この先、まともな人間に成長していくというお決まりのパターンが予想されるけど…)
 ところで、この作品の単行本が出たのが2012年、ということはそれより前から「パねえ」は使われていたわけだ。「半端ない」は良く耳にするけど、「パねえ」は気づかなかったなあ。僕の周りの生徒たちは使っていそうだけど。アンテナの感度をもっと良くしないといけないな。

 さて、次の試合ではだれがゴール決めてくれるか。

「また大迫パねえ?」
「いや、今度は武藤パねえ?」
「案外、川島ってこともあるパねえ?」

 いやいや、そんな使い方はないだろう。

■追記 6月26日
 予測通り、田端順平は真人間となり、地道に就職活動に励む展開となった。引きこもっていた主人公の人生君も、すっかり前向きになって、幸せな人生を歩き始める。単純だけど、前向きな明るい話。どこかの出版社の現代文の教科書に、おすすめの本としてこの本が挙がっていたけど、確かに高校生に薦めるにはいい作品だと思う。

プーシキン美術館展

 プーシキン美術館展を開催中の東京都美術館は平日だというのに大賑わい。今日からワールドカップ、ロシア大会が始まるからかな?(関係ないか…) 僕の特にお気に入りの作品は、次の3点。

  アルマン・ギヨマンの「廃墟のある風景」
  ジャン・ピュイの「サン=モーリスにある古代ローマの橋」
  オトン・フリエスの「カシスの木々」

 他にもいい作品はたくさんありました。ギヨマンの作品は公式HP内の特設Web Site(http://pushkin2018.jp/)で観ることができます。

「長谷川利行展」のち「釘ん句会」

 昨年の今頃、東京近代美術館で観た長谷川利行が良かったという話はこのブログに書いたが、その長谷川利行の展覧会があると知り、プーシキンルーブルも観たいけどまずこっちが先、と思って昨日行ってきた。

 初めて行く会場の府中市美術館は、爽やかに晴れ上がった府中の森公園の一角に建つ立派な建物。公園内を散策しながら、夕方の句会に備えて、まだ数の足りない俳句をひねり出すというのもいい考えだが、それは後にして、900円のチケットを購入。

 一年ぶりの再会となる長谷川利行、やっぱりいい!!
 書きなぐったような自由な筆の運びと大らかな構図。様々な色をごちゃまぜにしたようでいて、全体として保たれている調和。その中で明るく鮮やかな赤い絵の具がアクセントとなって、目を引き付ける作品が多い。(購入したカタログではその赤が、実物ほど鮮やかに印刷されていないのが残念だが、仕方がない。)
 この展覧会は、前期展示が6月10日まで。後期展示が6月12日から始まる。多くの作品が入れ替わるので、もう一度行きたいと思う。

 展覧会の後は、公園内をちょっと歩いてから、句会の会場、市ヶ谷に向かう。歳時記や電子辞書を入れたショルダーバッグが、展覧会のカタログを加えてますます重くなった。毎度のことながら、満足な句が揃っていないので、気持ちも少し重い。

 釘ん句会は、今回で35回目。(良く続いているなあ…)
 今回出した五句のうちの二句。

 アマゾンの大きな箱で来る香水
 節つけて「おはようよのなか」夏始

 「アマゾン…」のような句は、もう誰かが作っているに違いない。
 Kさんからお借りして帰った俳誌「知音」を読むのが楽しみ。