主語をどうする?

象は鼻が長い―日本文法入門 (三上章著作集)

象は鼻が長い―日本文法入門 (三上章著作集)

ずいぶん前に買ったままツンドク状態だったのを思い出して読みました。文法の本ですから当然理詰めで書かれているのですが、にもかかわらずそこに著者・三上章の一癖ありそうな人柄がにじみ出てくる、不思議な魅力を持った本です。
この本の趣旨は「は」という助詞の働きを明らかにすることです。多くの用例に基づきながら、「は」の本質に鋭く切り込んでいきます。そこからは必然的に「日本語には主語は不要である」という主張が生まれてきます。

主述関係という観念を捨てない限り、「Xハ……」の構文を解明することはできませんし、また本書の説明をひととおり理解された人は、ふたたび主述関係にもどるわけには行かないでしょう。…「文は主語と述部との二部分から成る」といううのは、ヨオロッパ語に固有の偏りであって、日本語には当てはまりません。

「主語不要論」に対しては当然「主語擁護論」という立場も存在します。両者の主張については、三上章の『象は鼻が長い』から「大きな啓示と励ましを受け」て書かれたという『日本語に主語はいらない』(金谷武洋著、講談社選書メチエの中で言及されており、そのあらましがわかります。もちろん主語否定の立場から書かれているので、主語肯定派の文献にも直接あたらなければ公平とはいえないでしょうが。

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

さて、僕自身は長年「学校文法」を教える中で、「主語―述語」などということを口にしてきたわけですが、上記二冊が主張する「主語不要論」には強く頷いてしまうのです。つまり、言行不一致といいますか、自分の中に大きな矛盾を抱えてしまうわけですね。この矛盾を解消するにはどうしたらよいか。今更「主語―述語」が日本語の文の基本だなどという旧来の文法を素朴に信じることはできません。かといって、「主語―述語」を否定する立場から、新しい「学校文法」が提示されたわけでもないので、「文法を乗り換える」こともできません。どちらにも徹しきれないという、どうにも困った状態を続けざるをえないというわけです。
しかも、文法に関わるもう一つの大きな問題は、外国人に日本語を教える際のいわゆる「日本語文法」と「学校文法」が二本立てになっているという事実。つまり、「学校文法」は外国人に日本語を教えるにあたって、ほとんど役に立たないのです。
こうした現状が放置されたままでいいはずはありません。もちろん僕には「学校文法」を書き換える力はありませんが、教室でのささやかな実践を発信することならできるはずです。幸い今年は在日外国人対象の日本語の授業も担当していることですし、ここは一念発起して新しい日本語文法を意識した授業に挑戦してみたいと思います。(なんて書いちゃったけど、大丈夫かな…)