軽やかな詩

荒地の恋を読めば、今度は北村太郎の詩を読みたくなる。
あの、小説に描かれた波乱の後半生からどんな詩が生み出されたのか。
図書館に行って『荒地の恋』を返却し、替わりに北村太郎詩集』(現代詩文庫61)『続・北村太郎詩集』(現代詩文庫118)を借りてきた。前者は、詩友から「たった、これだけかあ」と言われたという寡作の時代の全作品を掲載、後者は平穏な家庭生活を捨ててから最晩年に至るまでの多産の時代の作品群からの抜粋。

僕は最後の作品からページを逆にめくり始めた。
魅力的なフレーズが次々に目に飛び込んでくる。

この土地では、毎年一万人が自動車で死ぬ
十年で十万人、三十年で三十万人
だが、だれも自動車をなくせとはいわず
犬をつれて、夕方の住宅地を散歩したりしている


たくさん殺そう、たくさん生かそうと
反自然の怪物は、はげんできた
どちらか片方、というわけにはいかないようにできているのがおもしろい
そこがきちんとわかっているから、もう気晴らしをして生きるしかない

(「すてきな人生」より)


だって眠りは臨時の死であり
夢は死の妹なのだから
夢は
姉にいじめられて
身もだえしているってことになるのではないか、ほら、そこに、なぞと

(「海へ行く道」より)

以前、現代詩のアンソロジーで読んで難解だと感じられた詩も、実人生の一端を垣間見て詩人を身近に感じるようになった今は、すっとこちらの胸に入ってくる。
不思議な軽やかさは死が近しいものとなった詩人の諦念から生まれてくるのだろうか。
もっと北村太郎の詩を読んでみたいと思う。


北村太郎詩集 (1975年) (現代詩文庫〈61〉)
続・北村太郎詩集 (現代詩文庫)