「君は冷めないスープを想像できるか?」

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500ページを超える長編小説の書き出しはこうだ。

彼は成田空港の出発ロビーでその女をはじめて見た。
一昨年の秋、十月第一週の火曜日のことだ。

「彼」=中志郎は結婚しての7年になる中真智子をもう妻として愛せない。ところが夫婦で出かけたバリ島への旅行中、「その女」から授かった「超能力」によって中志郎は妻を愛していた頃の「記憶」をよみがえらせ、妻への愛を取り戻す。中真智子はそれまで不倫関係を続けていた男へメールを送る。

中真智子が送信したそのメールは僕の電話に届いた。


いま話せる? 寝てたらごめんなさい。


こうしていままで語ってきた物語はようやく僕のもとへたどり着くことになる。もしくはここから、このたった一行のメールを読んだ瞬間から、僕はこの物語に巻き込まれることになる。

ここで読者は語り手「僕」の意表をついた登場の仕方に驚き、この物語の主人公が中志郎ではなくこの「僕」であったことを知らされる。心憎いほど巧みな展開だ。
ところがおそらく多くの読者は(僕もその一人だけれど)この主人公=津田伸一に感情移入できないであろう。津田伸一は過去二回の離婚歴と、過去二回の舌禍事件で出版界から干されかかった経験のある、独身の小説家。そこそこ名が売れているために近づいてくる女性や、ネットで知り合った女性と奔放で不誠実な性的関係を続けている。喫茶店では禁煙席でも煙草に火をつけ、吸殻はコーヒーカップの中に投げ込む…
一方、中志郎のほうは、中真智子との破局と柴河小百合との再婚を経て、女性への愛の記憶よみがえらせることと女性を愛することは違うことに気づき、次のような恋愛観を語る。

古い記憶をどれだけなまなましく取り戻すことができても、いま生きている実感とのあいだには、ずれがあるんだよ。何だか物語の中をさまよっているようなもどかしさがある。物語を読むことと、現実を生きることとは別だろう? だから人は、これからも生きていくつもりなら、思い出すだけじゃ足りないんだ。思い出した記憶はまたいずれ消えるだろう。でもひとりの男がひとりの女を愛する、いま愛している、その自然な感情は永遠に続いていくだろう。

かならず冷めるもののことをスープと呼び愛と呼ぶのだ。」と断言してはばからない津田伸一とは対照的である。ともすれば、読者は誠実で純粋な中志郎のほうにシンパシーを覚えてしまうのではないだろうか。
正直言って、僕もそうだった。しかし、結末が(もちろん意外な結末が待っている)近づいてくるにしたがって、僕は自分の中に化学変化が起こり始めていることを意識し始めた。そして読み終わって現実世界に戻ったとき、品行方正? 謹厳実直? とは程遠いあの津田伸一を懐かしく思い返している自分が確かにいる…


佐藤正午に、してやられた。