記憶か思考か

橋爪大三郎の『正しい本の読み方』(講談社現代新書)を読んだ。 

正しい本の読み方 (講談社現代新書)

正しい本の読み方 (講談社現代新書)

 

読んだことは、忘れてよい。本のなかみは、忘れていいことが、大部分です。それは、日常会話のなかみは、忘れていいことが大部分なのと同じです。
読んだことのうち、忘れないほうがいい大事な内容は、自然に頭に残ります。(163㌻)

本を覚えるのではなく、本のことを覚える。これで十分です。本のことを覚えるとは、誰が書いた、どんな名前の本で、だいたいどんなことが書いてあったか。よい本だったか、それとも大したことがなかったか、を覚える。
それ以上の詳しいことは、覚えなくてよい。だって、本に書いてあるんだから。知りたいことがあれば、また本を見ればよいのだから。(165㌻)

僕は人よりも記憶力が劣るんじゃないか。本を読んでも、何も頭に残っていない気がする。読んでも読んでも、徒労に終わっているんじゃないか。どんなに読んでも僕にとって読書は暇つぶしにしかなっていないのではないか… そんな思いにとらわれることは度々あるが、「忘れてよい」と言われると安心する。どんな本を読んだか、面白かったかそうでなかったか、そのくらいは記憶力の悪い僕だって覚えている。(いや、それさえも時々忘れてしまうから、記録を残しておくためにこのブログを書いているんだけど…)
そういえば、誰かが言っていたんだか、僕自身がそう思ったのだったか忘れたけれど、本を外付けのハードディスクだと思えばいいんだな。あそこに書いてあったはず、という記憶さえあれば、必要なときにアクセスして取り出すことができる。
筆者はこんなことも言っている。

本の学校教育は、暗記に頼りすぎです。
考えて解くべき問題を、記憶で解いてしまうのは、有害です。思考力が弱くなる。
記憶と思考は、役割が違います。そして、頭の活動の中心になるのは、思考。思考を強めなければならない。(169㌻)

「日本の教育は知識偏重だから、いかん」「いや、知識軽視が今の教育の質を落としている」という議論は繰り返されているが、筆者の立場は一見すると知識偏重批判派のようにも思われる。しかし、こうも言っている。

なにかを覚えるのだったら、将来の、入学試験のために覚えなさい。社会に出てからも一生覚えているつもりで、覚えなさい。
たとえば、元素の周期律表。国語だったら、助動詞の活用。助動詞の接続型(未然形接続は、る、らる、す、さす……というあれです)。これを覚えないと、古文が読めない。数学だったら、定理や定義など。ごく限られたものです。(172㌻)

「ごく限られた」と言うけれど、助動詞の活用や接続を理解するためには、動詞の活用も知っておかなければいけないし… などなど、覚えるべきことは結構膨らんでしまうもの。そうなると結局、知識を貯め込むということを、軽視することはできない。どこまで生徒に要求するのかというのは、いつも頭を悩ませるところ。


最後に、この本の勘所と思われる箇所の一部を、僕自身の記憶のために抜き出しておこうと思う。

言葉には、ふたつの性質があることがわかります。
理屈を言う。そして、前提を述べる。
理屈とは、論理です。(中略)
でも、理屈のなかには、価値はない。価値は、前提の中にあります。前提のなかに、大事なものが隠れています。うちの車はポンコツだから新車を買わなきゃ、という考えは、論理でできているように見えるけれど、その前提に、そのひとの価値が隠れています。わが家には車が必要だとか、ポンコツより新車のほうがいいとか。(219~220㌻)

この「前提」を見ぬかなければ、問題は解決しない。ではこの「前提」に気づくために必要なのは、「知識」なのか、「思考」なのか、難しいところだが、いずれにしろ、その問題解決に役に立つのが「本」である、というのが筆者の一番言いたいこと。