現代人が負わされた問い

新・建築入門―思想と歴史 (ちくま新書)

新・建築入門―思想と歴史 (ちくま新書)

 

 大学の入学試験の過去問をいろいろ解いてみるという授業の中で、隈研吾の『新・建築入門―思想と歴史』を出典とする問題と出会った。それは、第二章「建築とは何か」のほぼ全文を読ませるもので、大学の入試問題としては、幸い良質な方の問題であると言えたが、一冊の本の一部を抜きだした文章の限界というのはどうしてもある。つまり、問題文からは建築が「構築」であるということは読みとれるものの、そもそもその「構築」とは何か、ということが十分には理解できないもどかしさが残ってしまうのだ。僕にはそのもどかしさをそのままにしておくことはどうしてもできなかった。

構築には特定の主語がある。主体が構築するのであり、しかも意志をもって、構築するのである。(25㌻)
形は構築にとって不可欠な要素である。構築とは形への意志である。(38㌻)
構築にとって垂直性は不可欠であり、かつ決定的なのである。(39㌻)
構築は構造を表現しようとする。(43㌻)
プラトンは乱雑な現実に対してイデアという理想的な世界を対比させた。乱雑な現実という外部に対比させて、彼はイデアという理想的世界を構築したのである。その対比こそが構築の本質であり、その意味においてプラトンこそが古代世界における構築的精神の完成者と呼ぶにふさわしい。(48~49㌻)
構築とはまぎれもなく自然を殺傷する行為であった。構築は何らかの形での自然の破壊を伴う。(70㌻)
構築とは自然を敵として戦われた戦争である。(72㌻)

このあたりまで読めば、構築というものの本質が見えてくる。そして、現在、構築=建築がさまざまな批判にさらされるに至った経緯も、当然のこととして理解できる。確かに建築は危機に瀕しているのだ。

もはや世界は物質の過剰に悩んでおり、しかも物質とは本来的にきわめて不自由なものであり、人間に今必要なのは物質的なものをさらに構築することではなく、非物質的な構築である、という批判である。(220㌻)
構築がそのものがかかえている自己中心的な罪悪性に対する批判であった。この自己中心性が、環境破壊の元凶であるという批判である。すなわち構築とは、その外部のすべてを抑圧しようとする、人間の原罪とも言うべき行為であるというわけである。(221㌻)
構築にかわる建築の方法論というものが、はたして可能であるのか。われわれは今、この問いの前に立たされている。(222㌻)

これまで、建築は構築とほぼ同義であると言えた。しかし、この先もそうであり続けることはできない。建築はどうあらねばならないのか、大学入試問題のように答えはあらかじめ用意されていない。これは現代人が負わされた哲学的な問いなのだ。