もう一度観たい

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 恵比寿ガーデンシネマで「マイ・ブックショップ」を観てきた。

 予告編で、映画の中にレイ・ブラッドベリの『華氏451度』が出てくるのがわかっていたので、自分のブログの記事を検索して、どんな話だったか復習しておいた。もし内容を忘れたままだったら、最後近くのシーンで鳥肌立つような驚きを感じることができなかったかもしれない。この映画を観る人は、『華氏451度』がどんな話なのか、概要だけでも知っておいた方がよいと思う。そういう意味では、『ロリータ』の内容を知らない僕は、知っている人ならば気付くはずの大事な部分を見落している、という可能性もある。

 ネット上の様々なレビューを読むと、人によって随分違った受け止め方をされている映画だということがわかる。特に最後のシーンをどう受け止めるかが、評価の別れ目。ぼんやりしているとあっけなく終わってしまって、「何だったの?」となってしまうので要注意だ。古き良き時代のイギリスを舞台にした、勇気ある女性の奮闘記、とまとめてしまうと、作品の魅力の半分は抜け落ちてしまう。僕は、ナレーションをもっとしっかり聞いて(読んで)おくべきだったと、ちょっと後悔している。もう一度観るか…

 

癖になってしまうといった体のもの

 「片岡義男の文章の魅力は、不愛想でごつごつした感じで、最初は抵抗を感じるものの、読んでいるうちに慣れてきて、むしろ癖になってしまうといった体のものだ。」という文は、日本語として不自然さを感じさせるだろうか。昨日、片岡義男について書いている過程でできた文なのだが、結局は書き直してしまった。「体(てい)」と「癖になる」という言葉の使い方が気になったのだ。
 「体」のこのような使い方は時々見かけるように思うが、最近の辞書はこのような用法を認知しているだろうか。手元にある三省堂の『スーパー大辞林3.0』では、

①外から見た有り様。様子。「風になびく―に描く」
②みせかけの様子。体裁。「―の良い逃げ口上」
③名詞などの下について接尾語的に用いられ、…のようなもの、…ふぜいなどの意を表す。「職人―の男」

となっている。どれも、僕の使い方とぴったりとは重ならない。冒頭に掲げたような使い方には違和感を覚える人がいるかもしれない。

 「癖になる」については、こういう用法は普通になっていて、抵抗を感じない人が多いのではないか。『スーパー大辞林3.0』には、「癖になる」が成句として取り上げられているが、その意味は、

習慣になる。特に、よくない習慣になる。「甘やかすと――る」

となっている。片岡義男の文章をたくさん読み続けることは、決して「よくない習慣」ではないだろう。「美味しくて癖になる」とか「気持ちよくて癖になる」のような用例を採録し、「好ましく感じてやめられなくなる(病みつきになる)」というような語義を載せる辞書があってもよさそうだ。

 

■追記(3月12日)

今日、小林秀雄の「喋ることと書くこと」という文章の中に、次のような一文があるのを見つけた。

人生の大事とは、物事を辛抱強く吟味する人が、生活の裡に、忽然と悟るていのものであるから、たやすくは言葉には現せぬものだ。

上の「てい」は漢字をあてれば「体」または「態」だろう。

 

 

発想の違いを面白がる

日本語と英語―その違いを楽しむ

日本語と英語―その違いを楽しむ

 

  片岡義男と言えば、「彼女とオートバイにまたがってかっ飛ばすのは痛快だぜ」風な小説を書く人、という間違った(?)先入観があって、自分とは無縁な存在と決めつけていたが、『珈琲が呼ぶ』を読んで以来、もっと読みたい作家のトップに躍り出てしまった。
 『日本語と英語』は期待を裏切らなかった。筆者は、ちょっとしたものの言い方や表記の中に、日本語と英語の文法的な違い、というより両者の根っこにある発想の違いを見つけて面白がっている、その面白がり方が読者にとっても面白い。筆者が面白いと思った事柄の面白さが、読者にもちゃんと伝わる。つまり書き手ばかりが一人で面白がっている、というふうにならないのは、片岡義男の文章の力だ。
 『珈琲が呼ぶ』がそうなのだが、不愛想でごつごつした感じの文章が、最初は抵抗を感じさせるものの、読んでいるうちに慣れてきて、むしろ快感に変わってくる。あの独特の文章がどこから生まれてくるのか、の答えが、『日本語と英語』の中にあるように思う。
 一例を挙げてみよう。

72 いずれはつけがまわってくる
 You pay the price eventually.という短い文章を書いたカードをいま僕は見ている。これに対する日本語が、同じく僕の字で次のようにある。「いずれはつけがまわってくる」。the priceと「つけ」とが均衡している。priceは基本的には金銭であり、「つけ」も本来の意味では金銭だ。「つけ」だからそれは「まわってくる」、そしてpriceはpayをする。
 この文脈での支払うという行為は、その人による直接の行為だが、「まわってくるつけ」というものは、いつもどおりそこにいる自分のところへ、文字どおりまわってくるだけなのだから、「つけ」に対してその人は直接の行為には出ていない。この短い英文をカードに書いたとき、僕はおそらくそんなことを考えて楽しんでいたのではなかったか。

  筆者は、英語からも日本語からも、同じ距離を置いた場所に立って両者を眺めている。そして両者を見比べて楽しんでいる自分自身を、もう一人の自分が見ている。日本語の使い手である自分自身を客観視する視点の存在が、独特な彼の文章を生み出したのに違いない。英文直訳調の生硬な文章というのではない、しかし日本語の「中」にとっぷり浸かっている人の文章とは明らかに違う文章だ。

演奏会のお知らせ

横浜シティ・シンフォニエッタ第35回演奏会

2019年3月23日 土曜日  13:30 開場 14:00 開演

鎌倉芸術館 小ホール

指揮:大貫ひろし

曲目:ワーグナージークフリート牧歌」WWV103

          シューベルト 交響曲第5番変ロ長調 D.485

          ベートーヴェン 交響曲第1番ハ長調 Op.21

 入場無料 全席自由

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3曲とも、YCSで演奏するは2度目だけど、何回やっても楽しい曲。

ぜひ、お越しください!

「当用漢字表」がキラキラネームの隆盛をもたらしたのか?

キラキラネームの大研究 (新潮新書)

キラキラネームの大研究 (新潮新書)

 

  キラキラネームが目に付くようになってくるのは1990年代の中ほど。団塊ジュニア世代(1970年代生まれ)が子育て期に入り始めた時期と重なる。
 では、団塊ジュニア世代に何があったか? 彼らは「当用漢字表」施行により、漢字の平易化が完成し、「漢和辞典的」な規範の引力の及ばないところで育った世代である。それが彼らのカジュアルで感覚的な漢字使用の要因となり、現在のキラキラネーム隆盛へとつながっている、というのが筆者の論。
 団塊ジュニア世代は「漢文の素養をもとに“塩梅”していく術を知らない世代」であるために、「一般的な漢字の読みを無視した突飛な当て字を使ったり、外来語を無理やり漢字に当てはめたりするようになった」というのである。
 確かに、なかなか面白い考え方であるとは思う。しかし、キラキラネーム現象にとって、「当用漢字表」はそれほど大きなファクターであっただろうか? 団塊ジュニアよりも前の世代が、筆者の言うほど「『漢和辞典』的な規範」を意識しながら子供の名づけをしていたのか、という点については、首をかしげざるを得ないのである。

近代美術館のさきがけ

日本近代洋画と神奈川県立近代美術館』は、今から36年も前に発行された本で、当時はまだ鎌倉の別館が建設予定という段階。鎌倉の本館が既に閉館となってしまった今では、本書のガイドブックとしての役割は終わっているのだが、日本の先駆的な近代美術館の一つとして果たしてきた役割について知ることは、展覧会をより深く楽しむことにつながる。

この美術館を代表する「この一点」として、萬鉄五郎の「日傘の裸婦」をあげ、その作品を解説するとともに、萬鉄五郎の足跡をたどる前半部分は、萬鉄五郎ファンとしての僕にとっては特に興味深かった。

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日本近代洋画と神奈川県立近代美術館 (1983年) (朝日・美術館風土記シリーズ〈6〉)

芸術の本質に届く名著

  高階秀爾の『続 名画を見る眼』は名著だと思う。山本健吉の『現代俳句』が名著であり、深田久弥の『日本百名山』が名著であるのと同じ意味合いにおいて。 

続 名画を見る眼 (岩波新書 青版 E-65)

続 名画を見る眼 (岩波新書 青版 E-65)

 

   『現代俳句』は、虚子、子規をはじめとする主要俳人の名句を鑑賞しながら、俳句の核心に迫る。『日本百名山』は、日本を代表する山の紹介文であるにとどまらず、山登りという行為のもたらす心のときめきを存分に読者に伝えてくれる。『続 名画を見る眼』は、モネ以降の14人の画家の代表作について解説しながら、絵を見ることの面白さを教えてくれるばかりでなく、随所で詩や音楽という他ジャンルをも含む芸術の本質に触れようとする。
 そして、『現代俳句』が、『日本百名山』がそうであるように、『続 名画を見る眼』の文章もまた、名文である。明晰で、時に詩情をも湛えた文章は、絵を見る喜びを余すところなく読者に伝える。

 白いドレスを身にまとい、パラソルを指して丘の上に爽やかに立つ若い女性を描き出したこの作品においても、画面の隅々にいたるまで、明るい光が溢れている。それは、開け放たれた窓から遠慮がちにはいりこんで、シャンデリアや卓上の静物の上に静かに結晶するフェルメールの光ではなく、もっと自由奔放に拡散し、反射しながら、世界全体を浸してしまうような光である。
 白い雲の浮かぶ夏の空は、底知れぬ光の海のように遠くに拡がっている。パラソルをさす女は、今その空から舞い降りたかのように、白い豊かな衣装の裾と麦藁帽をおさえる青いスカーフを風に靡かせながら、草原の間に軽やかに立つ。(モネ「パラソルをさす女」)