暑さがあるく

大岡信は『第八折々のうた』で、阿部青鞋

  むづかしき顔してあるく暑さかな

を取り上げ、阿部青鞋には「砂浜が次郎次郎と呼ばれけり」「虹自身時間はありと思ひけり」など「ふしぎな感覚」の句が多いと紹介したあと、

それらに対して右の句は、これまた徹底して日常誰にも身に覚えのある瞬間を詠んでいる。

と述べている。

確かに、耐えがたい暑さの中、気難しそうな顔をして道を歩いている自分自身を意識してみたり、また、暑さに苦り切った表情の他人とすれ違ったりということはしばしばある。この句はそんなありふれた「日常」を詠んだのだという解釈に一応は納得する。

しかし、この句をもう一度読み返してみると、「ふしぎな感覚」にとらわれはじめる。歩いているのは暑がっている人ではなく、「暑さ」という、抽象的な存在そのものなのではないだろうか?

つまり文法的に言えば、「あるく」は終止形ではなく、連体形として「暑さ」を修飾している。歩いているのは「暑さ」。そうすると、切字の「かな」は「むづかしき顔してあるく暑さ」というかたまり全体を受けて詠嘆していることになる。

「暑さ」が難しい顔をして歩いている絵をどうイメージしたらよいのか戸惑うけれど、その何だか分からなくなる所こそがこの句の面白さなのではないだろうか。作者はあえてそこを狙ってないだろうか?

阿部青鞋に、

  想像がそつくり一つ棄ててある

  永遠はコンクリートを混ぜる音か

という句がある。これらの句の「想像」「永遠」と同じステージに「暑さ」という語を立たせてみたいという気持ちに今僕はなっている。