道義の問題ではなく

宮本輝『水のかたち』上巻、読了。
主人公の名は、能勢志乃子。
僕と同年生まれで、ちょうどウチと同じくらいの年頃の子どもが三人いる、というだけでも親近感を覚えるが、趣味や考え方にも少なからず似たところがあるような感じがして、僕はこの女性を赤の他人と感じることができない。この場面では僕だったらこう感じ、行動するだろう、と思ったのとほぼ同じようにこの女性も感じ、ふるまう。小説中の女性にこれほど感情移入しながら読んだという経験が、今まであっただろうか?

水のかたち 上

水のかたち 上

近所の喫茶店奥さんから、がらくただから持って帰って欲しい言われてもらって来た茶碗が、実は驚くほど高価な名品だったことを知った志乃子は、こんなふうに考える。

あの鼠志野の茶碗はもう自分のものになってしまって、元の持主にその真の価値を明かす義務はないという意見は正しい。だが、そうすることは自分らしくないのだ。それは自分の生き方ではないのだ。
道義の問題ではなく、私の心の問題だ。いささかなりとも罪悪感がつきまとうようなことをするのは、私にはとても疲れるのだ。

いささかなりとも罪悪感を抱えて生きたくないという志乃子の気持ちが僕にはありありとわかる気がするのだ。
さて、下巻では志乃子は自分の「罪悪感」をどう片づけるのか?


『水のかたち』下巻