学校という居場所

ここ数年の職場の変貌ぶりに居心地の悪さを感じ続けているのは、僕が時代の変化に乗り遅れているからでは決してないということが、現代思想4月号の特集「変わりゆく教育」を読めばよくわかる。掲載されたどの論文も、今の教育が進もうとしている方向に批判的あるいは懐疑的、そしてほとんどの論文が昨今の教育の動向が市場原理・新自由主義と深くかかわっている点を指摘している。特集全体を通読してみれば、上からの「改革」の圧力に抗して現場の教師としてどう振舞えばよいのかを考える手がかりが得られるはずだ。職場の分断化に抗い団結・連帯することの重要性を僕は再認識した。

あちこちに線を引きながら読んだが、その中でも特に印象が強かった部分を少しだけ引いておきたい。

子供は学校に何を求めているのか。当たり前のことですが、子どもたちは学校という場に人がいるから、意味を感じているのです。…学校の意味は色々な人がいる場所性にあるのだと、子どもや若い人たち自身感じているのです。(小沢牧子「心の教育を超えて」)

元々、学校には四つの機能があった。一つは勉強だが、二つ目に、しつけがあり、三つ目は就職紹介、四つ目は、居場所の機能である。…四つ目の居場所機能について、多くの人が語らないか無視している。だがこれは重要な機能なのだ。(佐々木賢「教育商品化の現在」)

子どもたちにとって学校は話を聞いてくれる友人や大人と出会える大切な「居場所」であることを忘れないでおきたい。市場原理は子供たちからその「居場所」も奪おうとしている。