あいさつの心

『俳句界』12月号の中からちょっと気になった句を取り上げて、何回かに分けて書いてみたいと思います。

あいさつの心を知らぬ君らの句   筑紫磐井

伝統派の若き俳人」という前書きがあります。「あいさつ」とは、山本健吉が、「挨拶と滑稽」の中で、「一、俳句は滑稽なり。二、俳句は挨拶なり。三、俳句は即興なり。」と言っている、その二番目の「挨拶」のことなのだろうとまずは考えておきます。山本健吉は、俳句は客観世界を十七音の言葉に定着させたものであるが、そのあとに相手への問いかけ(isn’t it?)を忘れてはならならず、読者の側には会得したしるしとしての微笑が存在するはずだと言い、さらに次のように続けます。

発句が脇句を要求する連句様式においては、発句のこのような性格は見落とされることはなかったのである。私は俳句のこの特殊な性格を挨拶と言うのである。いわゆる挨拶俳句にそういった性格は顕著であるが、かならずしも挨拶俳句でなくても、すぐれた古俳句はおのずから対者との間に談笑の場を開いているのだ。そしてそのような性格ほど、今日の俳句から忘れ去られているものはないのである。…モノローグの壁を破って、もう一度対者とのつき合いの場を開くことだ。独り合点は俳句の最大のタブーである。(「ディアローグの藝術」より)

この文章が書かれたのは1952年。上の句の「あいさつ」が山本健吉の言う「挨拶」の意だとすると、山本健吉が半世紀前の「今日の俳句」に対して抱いたのと同じ思いを、筑紫磐井は今日の「伝統派の若き俳人」に対して抱いているということになるわけです。俳壇の事情に疎い僕には、「伝統派の若き俳人」が具体的にどういう人たちをさすのかよくわかりませんが(「若き」といっても幅が広いですしね)、「伝統派」というからには、季語・定型を尊重する立場の人たちなのでしょう。しかしながらその句は「独り合点」の弊に陥っているということなのでしょう。

俳句界 2007年 12月号 [雑誌]

俳句界 2007年 12月号 [雑誌]

『俳句界』誌上やネット上では、若い世代の俳人たちの、清新な感覚の面白い句を発見することが少なくありません。彼らはたくみに季語や定型を使いこなしているようにも見えますが、「挨拶」という観点から見れば「モノローグ」に終わってしまっている句もあるかもしれません。
筑紫磐井がどういった句をさして「あいさつを知らぬ」と言っているのか、とても気になります。もっとも「あいさつ=挨拶」という最初の前提も怪しいですが…