やるしかない状況に自分を追い込む

 『日曜俳句入門』(吉竹純著岩波新書)は、俳句の作り方ではなくて、新聞俳壇などへの投句を楽しむコツを教えてくれる本。 

日曜俳句入門 (岩波新書)

日曜俳句入門 (岩波新書)

 

  僕は新聞の俳句欄に投句するのは腕を磨くのにはあまり有効ではないと聞いていたし、確かにそうだろうと思っていた。だって、何千もの作品の中から選ばれるのはそのおよそ100分の1だし、選者のコメントをいただける確率はさらに低い。自分の句がどう評価されているのか、なかなかわからないのだ。そんなわけで、新聞よりは掲載される確率の高そうな俳句総合誌を鍛錬の場と決めて、投句をしていた時期があったのだが。
 しかし、この本を読んで、少し認識が変わった。自分の句が掲載されることを目指して、毎週続けて投句する。1年、2年と掲載されることがなくても、とにかく継続して投句を続ける、その努力が報われないはずはないのだ。全国紙に自分の句が出た時の歓びは、総合誌の時の数倍も大きいに違いないし、著者が言うように周囲からの反響もあるだろう。
 僕が新聞俳壇に投句しないのは、それがあまり鍛錬にならないと思っていたからというだけでなく、単に宛名を書くのが面倒だと思っていたということもあるかもしれない。だったら、官製はがきにまとめて宛名を印刷してしまって、投句しなければはがきが無駄になる、という状況を作ってしまったらどうだ。句会の期日が迫るとか、やるしかない状況に追い込まれなければやらない自分であることはよくわかっているんだから。

記憶か思考か

橋爪大三郎の『正しい本の読み方』(講談社現代新書)を読んだ。 

正しい本の読み方 (講談社現代新書)

正しい本の読み方 (講談社現代新書)

 

読んだことは、忘れてよい。本のなかみは、忘れていいことが、大部分です。それは、日常会話のなかみは、忘れていいことが大部分なのと同じです。
読んだことのうち、忘れないほうがいい大事な内容は、自然に頭に残ります。(163㌻)

本を覚えるのではなく、本のことを覚える。これで十分です。本のことを覚えるとは、誰が書いた、どんな名前の本で、だいたいどんなことが書いてあったか。よい本だったか、それとも大したことがなかったか、を覚える。
それ以上の詳しいことは、覚えなくてよい。だって、本に書いてあるんだから。知りたいことがあれば、また本を見ればよいのだから。(165㌻)

僕は人よりも記憶力が劣るんじゃないか。本を読んでも、何も頭に残っていない気がする。読んでも読んでも、徒労に終わっているんじゃないか。どんなに読んでも僕にとって読書は暇つぶしにしかなっていないのではないか… そんな思いにとらわれることは度々あるが、「忘れてよい」と言われると安心する。どんな本を読んだか、面白かったかそうでなかったか、そのくらいは記憶力の悪い僕だって覚えている。(いや、それさえも時々忘れてしまうから、記録を残しておくためにこのブログを書いているんだけど…)
そういえば、誰かが言っていたんだか、僕自身がそう思ったのだったか忘れたけれど、本を外付けのハードディスクだと思えばいいんだな。あそこに書いてあったはず、という記憶さえあれば、必要なときにアクセスして取り出すことができる。
筆者はこんなことも言っている。

本の学校教育は、暗記に頼りすぎです。
考えて解くべき問題を、記憶で解いてしまうのは、有害です。思考力が弱くなる。
記憶と思考は、役割が違います。そして、頭の活動の中心になるのは、思考。思考を強めなければならない。(169㌻)

「日本の教育は知識偏重だから、いかん」「いや、知識軽視が今の教育の質を落としている」という議論は繰り返されているが、筆者の立場は一見すると知識偏重批判派のようにも思われる。しかし、こうも言っている。

なにかを覚えるのだったら、将来の、入学試験のために覚えなさい。社会に出てからも一生覚えているつもりで、覚えなさい。
たとえば、元素の周期律表。国語だったら、助動詞の活用。助動詞の接続型(未然形接続は、る、らる、す、さす……というあれです)。これを覚えないと、古文が読めない。数学だったら、定理や定義など。ごく限られたものです。(172㌻)

「ごく限られた」と言うけれど、助動詞の活用や接続を理解するためには、動詞の活用も知っておかなければいけないし… などなど、覚えるべきことは結構膨らんでしまうもの。そうなると結局、知識を貯め込むということを、軽視することはできない。どこまで生徒に要求するのかというのは、いつも頭を悩ませるところ。


最後に、この本の勘所と思われる箇所の一部を、僕自身の記憶のために抜き出しておこうと思う。

言葉には、ふたつの性質があることがわかります。
理屈を言う。そして、前提を述べる。
理屈とは、論理です。(中略)
でも、理屈のなかには、価値はない。価値は、前提の中にあります。前提のなかに、大事なものが隠れています。うちの車はポンコツだから新車を買わなきゃ、という考えは、論理でできているように見えるけれど、その前提に、そのひとの価値が隠れています。わが家には車が必要だとか、ポンコツより新車のほうがいいとか。(219~220㌻)

この「前提」を見ぬかなければ、問題は解決しない。ではこの「前提」に気づくために必要なのは、「知識」なのか、「思考」なのか、難しいところだが、いずれにしろ、その問題解決に役に立つのが「本」である、というのが筆者の一番言いたいこと。

予備校の先生はどういう授業をしているのか、拝見。

これもまた、授業のために購入。 

古文の勉強法をはじめからていねいに (東進ブックス 大学受験 TOSHIN COMICS)

古文の勉強法をはじめからていねいに (東進ブックス 大学受験 TOSHIN COMICS)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: ナガセ
  • 発売日: 2018/11/27
  • メディア: 単行本
 

プロの技を見せてもらって、そこから謙虚に学びたいと思ったのだが、とても参考になった。(本当は予備校に行って、生の授業を見せてもらえればいいのだけれど。)

というわけで、同じシリーズの「現代文」も買ってしまった。予備校の 授業料だと思えば、安い。

現代文の勉強法をはじめからていねいに (東進ブックス TOSHIN COMICS)

現代文の勉強法をはじめからていねいに (東進ブックス TOSHIN COMICS)

  • 作者:出口汪
  • 出版社/メーカー: ナガセ
  • 発売日: 2014/12/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

これで『平家』を読んだ気になってはいけないが…

平家物語 マンガとあらすじでよくわかる (じっぴコンパクト新書)

平家物語 マンガとあらすじでよくわかる (じっぴコンパクト新書)

 

 授業の準備のために購入。

長大な物語が要領よく簡潔にまとめられていて、ありがたい。『平家物語』の全体像を見渡すことができる。

横山光輝の漫画が各場面ごとに1ページ単位(2~3コマ程度)で引用されているのは、もう少し長くても良かったのではないかとは思うが、まあ、挿絵程度の効果はある。

「巣作り」としての文学

文学 (ヒューマニティーズ)

文学 (ヒューマニティーズ)

  • 作者:小野 正嗣
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2012/04/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 小野正嗣の『文学』は比喩に満ちている。

文学という営為は言葉によって巣を作るという行為に似ていると書いた。しかし、くり返しになるが、この巣は作っている本人にとっても、それを共有する者たちにとっても必ずしも居心地のよいものではないようだ。いや、もちろん歓喜や快楽をもたらしてくれはする。でも気づけば、不安の地下水はたえずしみ出してきて喜びに水を差す。あちらこちらで壁や天井が崩れ落ちて、希望や夢がついえてしまう。切れ目や割れ目からは冷たい、あるいはなまぬるい、とにかく心地のよくない風が吹いてくる。あちらの暗がりでは、どうも得体の知れない、それも自分かもしれない異様なものらがうごめいている。はっきりとは聞き取れない、だから外国語のようでもあり自分自身の言葉でもあるような雑音がずっと聞こえていて、なんだか落ち着かない。それでわれわれは必死で穴を掘る。言葉を磨き、言葉を摩耗させながら、こっちを掘り、あっちを掘る。土のなかから次々と問いが掘り出される。きりがない。穴を掘ることは問いを見出すことではないのかと思えてくる。  (162㌻)

 こうした比喩を、どれだけ自分自身の文学体験とリンクさせながら読むことができるか。この本を面白く読めるかどうかは、その点にかかっているのだろう。残念ながら、著者によって繰り返される「巣作り」という比喩を通して何ものかを会得するには、僕の文学体験はあまりにも乏しいと認めざるを得ないようだ。「不安の地下水」? 「自分かもしれない異様なものら」? 著者は何をイメージしてこう言うのだろう?


古事記』と『日本書紀』、漱石の『坑夫』を引き合いに出して論じている部分など、興味をそそられる個所も少なくはなかったが。

努力と忍耐

授業の準備のために、図書室の「生物学」の棚を物色しているうちに、こんな本を見つけて読みはじめてしまった。

今西錦司 生物レベルでの思考 (STANDARD BOOKS)

今西錦司 生物レベルでの思考 (STANDARD BOOKS)

 

 私をつかまえて、あんたは好きなことばかりしてきてよかったなと、まるで私が苦労知らずの楽な生活ばかりを送ってきたかのようにいうひとがある。そう見えるのであろうか。しかし、好きなことを求めてこれを実現さすまでには、人一倍の忍耐も努力も必要だということを、知るひとはすくない。学問はもとより、探検しかり、山またしかりである。よくぞ好きなことばかりしてきたものだ。あとにはなんの悔いものこっていない。(「好ききらい」より)

79歳の時の文章。いいですね、悔いのない人生。

今西錦司と言えば、以前読んだ『山の随筆』(旺文社文庫)が面白かった。「たき火の練習」には、三高時代の悪行が書かれている。教師の目を盗んで校内の松の木を伐って、登山に向けてたき火の練習をしたという。落第しないすれすれの数を調べて、年間130日くらい山で暮らしたこともあるという。そりゃ、そこまでするには努力も忍耐も必要ですよね。 

俳句を口語訳すること

名句の所以 近現代俳句をじっくり読む (澤俳句叢書)

名句の所以 近現代俳句をじっくり読む (澤俳句叢書)

 

 小澤實は『名句の所以』で取り上げたすべての句について口語訳を附している。

たとえば橋閒石の「三枚におろされている薄暑かな」。

この句を見たとたんに「何だかわからん。だから俳句は苦手だ。」と拒否して終わってしまう読者もいそうだ。著者が言う「切字や文語のせいで俳句を食わず嫌いの人」だ。口語訳はそんな読者への配慮であって、

魚は三枚におろされてしまっている。いつか薄暑になっていることだなあ。

という口語訳を読めば「なるほど、そういうことか」という具合に納得して作品世界を受容できるということなのだろう。

しかし、「薄暑」が「三枚」におろされているような奇妙な感覚にとらわれることを面白がっているような読み手にとっては、いきなり「魚は…」と言ってしまう「口語訳」はちょっと興ざめなものとも言える。

 

清崎敏郎の「塗畦のぐうつと曲りゐるところ」はどうか。これを口語訳する意味はあるのか? と思う。しかしこれにも「口語訳」はついている。

塗った畦がぐうっと曲がっているところに魅きつけられている。

元の句では、畦の曲がっている「ところ」を提示しているだけだが、口語訳の方ではその曲がっている「ところ」に魅きつけられている「私(=作者)」が登場する。「私」は書かれていはいないが、「魅きつけられている」の主語が「私」であることは明白だ。「塗畦のぐうつと曲りゐるところ」の句を読む際に、その光景に「魅きつけられている」筆者の存在まで読み取るべきだという「訳者」のメッセージが伝わってくる。もっとも、多くの俳句はいちいち断らなくても、「…に(私は)魅きつけられている」という前提で書かれているとも言えるわけだが、この句の場合、特に「私」の存在を注視すべしというのが訳者の考えなのだろう。実際、口語訳に続く解説の中で、次のように述べている。

「ぐうつと曲りゐるところ」という表現は作者の立ち位置まで想像させる。作者は畦の隅の位置に近いところに立っていよう。

 

小澤實は『池澤夏樹個人編集日本文学全集』の第29巻「近現代詩歌」においても、すべての句に口語訳をつけることを方針としている(一部省かれている句もあるが)。その「選者あとがき」にはこうある。

名句を口語訳してみるということは、正確に句ができてきた道筋をほどいてみるということである。

確かに示された口語訳は、文語から口語への機械的な置き換えで終わってはいない。口語訳に際して、訳者はその句と能動的に向かい合う。その結果から読み取れるのは、「句ができてきた道筋」というよりは、「訳者がその句をどう解釈したかの道筋」といった方が正確ではないだろうか。