小野正嗣の『文学』は比喩に満ちている。
文学という営為は言葉によって巣を作るという行為に似ていると書いた。しかし、くり返しになるが、この巣は作っている本人にとっても、それを共有する者たちにとっても必ずしも居心地のよいものではないようだ。いや、もちろん歓喜や快楽をもたらしてくれはする。でも気づけば、不安の地下水はたえずしみ出してきて喜びに水を差す。あちらこちらで壁や天井が崩れ落ちて、希望や夢がついえてしまう。切れ目や割れ目からは冷たい、あるいはなまぬるい、とにかく心地のよくない風が吹いてくる。あちらの暗がりでは、どうも得体の知れない、それも自分かもしれない異様なものらがうごめいている。はっきりとは聞き取れない、だから外国語のようでもあり自分自身の言葉でもあるような雑音がずっと聞こえていて、なんだか落ち着かない。それでわれわれは必死で穴を掘る。言葉を磨き、言葉を摩耗させながら、こっちを掘り、あっちを掘る。土のなかから次々と問いが掘り出される。きりがない。穴を掘ることは問いを見出すことではないのかと思えてくる。 (162㌻)
こうした比喩を、どれだけ自分自身の文学体験とリンクさせながら読むことができるか。この本を面白く読めるかどうかは、その点にかかっているのだろう。残念ながら、著者によって繰り返される「巣作り」という比喩を通して何ものかを会得するには、僕の文学体験はあまりにも乏しいと認めざるを得ないようだ。「不安の地下水」? 「自分かもしれない異様なものら」? 著者は何をイメージしてこう言うのだろう?
『古事記』と『日本書紀』、漱石の『坑夫』を引き合いに出して論じている部分など、興味をそそられる個所も少なくはなかったが。