教科書にいかが?

 白楽駅近くの古本屋「Tweed Books」にて300円で購入した、アーサー・ビナード空からきた魚』(集英社文庫)を読んだ。 

空からきた魚 (集英社文庫)

空からきた魚 (集英社文庫)

 

  アーサー・ビナードのエッセイ集は、以前に『出世ミミズ』と『日々の非常口』を読んでいるが、書かれたのはこちらの方が先らしい。この本も自転車の話だったり、俳句や短歌が織り込まれていたり、なかなか楽しい。俳句についてはこの時点ですでにかなりの精進を積んでいることがわかる。


  湯豆腐のだれもいなくなり昆布残る
  年の市ティッシュを配るサンタいて
  海亀や浜を耕しつつ進む


 短歌もたくさん出てくる。たとえば、「さらば新聞少年」の冒頭に掲げられているこんな歌。


  新聞の勧誘くれば日本語のニの字も知らぬガイジンとなる


 アーサー・ビナードの文章は、中学や高校の国語の教科書には採られていないのだろうか? この「さらば新聞少年」なんか、中高生に読ませるのにいい文章だと思うけど。上の短歌のあと、文章はこのように続く。

 この手口はぼくの、いってみれば一種の特権だ。新聞に限らず、その他もろもろの勧誘に対しても効力を発揮する。けれど、新聞勧誘を題材に詠むことにしたのは、その相手がほかよりどこか身近に感じられるからだろう。 

 このぼくも、実は高校生のころ、オハイオ州で新聞配達をやっていた。…

 

映画の限界

今日から岩波ホールで始まった、『12か月の未来図』を観てきた。f:id:mf-fagott:20190406214437j:plain

僕の知っている教育現場のリアルとはかけ離れた世界。現実の教育困難校の子供たちやその家庭はもっと複雑で難しい。映画というのは現実を単純化し、美化してしまうものらしい。興行として成り立たせるためには、笑える場面、泣ける場面、刺激的な場面は必須なんだろう。そしてほろ苦く余韻を残す最後のシーン。ドキュメンタリー映画ではないので、割り切って楽しむべし。

前橋文学散歩の下見

前橋は萩原朔太郎の生地。

電車を降りるとすぐに上毛かるたが出迎えてくれる。早くも文学散歩気分。

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駅を出て、欅並木をずんずん進むと、広瀬川にぶつかる。

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広瀬川に沿って整備されている「広瀬川詩(うた)の道」には、詩碑が点在する。

 

 廣瀬川白く流れたり
 時さればみな幻想は消えゆかん。

 われの生涯らいふを釣らんとして
 過去の日川邊に糸をたれしが
 ああかの幸福は遠きにすぎさり
 ちひさき魚はにもとまらず。 (朔太郎「広瀬川」より)

 

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谷川俊太郎、吉原幸子、辻征夫、清水徹男……皆、萩原朔太郎賞を受賞した作品。

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目的地の一つだった近代文学館はなんと休館日。

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「残念だったね、またおいで。」と朔太郎。「じゃあ、今日は下見ということで、また来ますよ。今度は仲間を連れて。」朔太郎と別れて、次の目的地へ向かう。

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大きな橋で利根川を渡ったところに山村暮鳥の詩碑がある。持っていた地図が不正確で、一時間近く探し回ってしまった。山村暮鳥と言えば、「おうい 雲よ」が有名だが、刻んであるのは次の詩。

 

 淙々として
 天の川がながれてゐる
 すっかり秋だ
 とほく
 とほく
 豆粒のやうな
 ふるさとだのう (詩集『雲』より)

 

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前橋駅構内の土産物屋で、朔太郎が愛したというお菓子を買って帰る。いや、朔太郎が愛したのは広瀬川の方か? 

僕が線を消して処分する本①

 本を処分しないと、置き場所がいよいよなくなってきた。
 本の処分は大変だ。まず、どの本を処分し、どの本を取っておくべきか、判断が難しい。散々迷ったあげく、古本屋に出すを決断して段ボール箱に入れた本を、思い直してまた本棚に戻してしまうことも多い。だから時間ばかりかかって、なかなかはかどらない。
 処分すると決めた本は、中身をチェックして、鉛筆で線を引いてある部分が見付かると、そこを読んでから、消しゴムで消す。僕は本に線を引いたり書き込んだりするときは、必ず鉛筆。古本屋に引き取ってもらえないと困るということもあるが、本にペンで線を引くことには抵抗があるのだ。(以前は手作りの蔵書印を押していたこともあったが、それも今はやらない。蔵書印のある本は引き取らないとはっきり言っている古本屋もある。)
 そんなわけで、本の処分には時間がかかる。

 今日は、河合隼雄の『カウンセリングを語る』の上下二巻を処分すると決め、線を消す作業をした。僕は一時期、ずいぶんカウンセリング関係の本を読んだ。今でも興味はあるのだが、もうこの先この本を読むことはないだろう。
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 線は、こんなところに引いてあった。 

 この中に学校の先生がおられましたら、自分のクラスの中に必ずあなた方が限界に挑戦して、前よりも少しよい先生になるために送り込まれてきた生徒がいることに気づかれるはずです。ところがだいたいはそうは思わなくて、なんでああいう問題児が私のクラスにいるのかと思って、いやになってそれを排除してしまうことが多いわけですが、実はそうではなくて、その問題児と言われている子供と格闘することによって、われわれが成長していくわけです。 

もう一度観たい

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 恵比寿ガーデンシネマで「マイ・ブックショップ」を観てきた。

 予告編で、映画の中にレイ・ブラッドベリの『華氏451度』が出てくるのがわかっていたので、自分のブログの記事を検索して、どんな話だったか復習しておいた。もし内容を忘れたままだったら、最後近くのシーンで鳥肌立つような驚きを感じることができなかったかもしれない。この映画を観る人は、『華氏451度』がどんな話なのか、概要だけでも知っておいた方がよいと思う。そういう意味では、『ロリータ』の内容を知らない僕は、知っている人ならば気付くはずの大事な部分を見落している、という可能性もある。

 ネット上の様々なレビューを読むと、人によって随分違った受け止め方をされている映画だということがわかる。特に最後のシーンをどう受け止めるかが、評価の別れ目。ぼんやりしているとあっけなく終わってしまって、「何だったの?」となってしまうので要注意だ。古き良き時代のイギリスを舞台にした、勇気ある女性の奮闘記、とまとめてしまうと、作品の魅力の半分は抜け落ちてしまう。僕は、ナレーションをもっとしっかり聞いて(読んで)おくべきだったと、ちょっと後悔している。もう一度観るか…

 

癖になってしまうといった体のもの

 「片岡義男の文章の魅力は、不愛想でごつごつした感じで、最初は抵抗を感じるものの、読んでいるうちに慣れてきて、むしろ癖になってしまうといった体のものだ。」という文は、日本語として不自然さを感じさせるだろうか。昨日、片岡義男について書いている過程でできた文なのだが、結局は書き直してしまった。「体(てい)」と「癖になる」という言葉の使い方が気になったのだ。
 「体」のこのような使い方は時々見かけるように思うが、最近の辞書はこのような用法を認知しているだろうか。手元にある三省堂の『スーパー大辞林3.0』では、

①外から見た有り様。様子。「風になびく―に描く」
②みせかけの様子。体裁。「―の良い逃げ口上」
③名詞などの下について接尾語的に用いられ、…のようなもの、…ふぜいなどの意を表す。「職人―の男」

となっている。どれも、僕の使い方とぴったりとは重ならない。冒頭に掲げたような使い方には違和感を覚える人がいるかもしれない。

 「癖になる」については、こういう用法は普通になっていて、抵抗を感じない人が多いのではないか。『スーパー大辞林3.0』には、「癖になる」が成句として取り上げられているが、その意味は、

習慣になる。特に、よくない習慣になる。「甘やかすと――る」

となっている。片岡義男の文章をたくさん読み続けることは、決して「よくない習慣」ではないだろう。「美味しくて癖になる」とか「気持ちよくて癖になる」のような用例を採録し、「好ましく感じてやめられなくなる(病みつきになる)」というような語義を載せる辞書があってもよさそうだ。

 

■追記(3月12日)

今日、小林秀雄の「喋ることと書くこと」という文章の中に、次のような一文があるのを見つけた。

人生の大事とは、物事を辛抱強く吟味する人が、生活の裡に、忽然と悟るていのものであるから、たやすくは言葉には現せぬものだ。

上の「てい」は漢字をあてれば「体」または「態」だろう。

 

 

発想の違いを面白がる

日本語と英語―その違いを楽しむ

日本語と英語―その違いを楽しむ

 

  片岡義男と言えば、「彼女とオートバイにまたがってかっ飛ばすのは痛快だぜ」風な小説を書く人、という間違った(?)先入観があって、自分とは無縁な存在と決めつけていたが、『珈琲が呼ぶ』を読んで以来、もっと読みたい作家のトップに躍り出てしまった。
 『日本語と英語』は期待を裏切らなかった。筆者は、ちょっとしたものの言い方や表記の中に、日本語と英語の文法的な違い、というより両者の根っこにある発想の違いを見つけて面白がっている、その面白がり方が読者にとっても面白い。筆者が面白いと思った事柄の面白さが、読者にもちゃんと伝わる。つまり書き手ばかりが一人で面白がっている、というふうにならないのは、片岡義男の文章の力だ。
 『珈琲が呼ぶ』がそうなのだが、不愛想でごつごつした感じの文章が、最初は抵抗を感じさせるものの、読んでいるうちに慣れてきて、むしろ快感に変わってくる。あの独特の文章がどこから生まれてくるのか、の答えが、『日本語と英語』の中にあるように思う。
 一例を挙げてみよう。

72 いずれはつけがまわってくる
 You pay the price eventually.という短い文章を書いたカードをいま僕は見ている。これに対する日本語が、同じく僕の字で次のようにある。「いずれはつけがまわってくる」。the priceと「つけ」とが均衡している。priceは基本的には金銭であり、「つけ」も本来の意味では金銭だ。「つけ」だからそれは「まわってくる」、そしてpriceはpayをする。
 この文脈での支払うという行為は、その人による直接の行為だが、「まわってくるつけ」というものは、いつもどおりそこにいる自分のところへ、文字どおりまわってくるだけなのだから、「つけ」に対してその人は直接の行為には出ていない。この短い英文をカードに書いたとき、僕はおそらくそんなことを考えて楽しんでいたのではなかったか。

  筆者は、英語からも日本語からも、同じ距離を置いた場所に立って両者を眺めている。そして両者を見比べて楽しんでいる自分自身を、もう一人の自分が見ている。日本語の使い手である自分自身を客観視する視点の存在が、独特な彼の文章を生み出したのに違いない。英文直訳調の生硬な文章というのではない、しかし日本語の「中」にとっぷり浸かっている人の文章とは明らかに違う文章だ。