詩集『セラフィタ氏』は横浜市立中央図書館の、個人句集の棚に(長谷川櫂や金子兜太らと並んで)置かれていた。なぜ?
- 作者: 柴田千晶
- 出版社/メーカー: 思潮社
- 発売日: 2008/04/01
- メディア: 単行本
- クリック: 4回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
句会の席で二三度お目にかかったことのある柴田千晶氏の本を、俳句の棚の中から発見するというのも面白い偶然だと思う。
さて、この作品においては「散文的」という語が重要な意味を担っているように思われる。作品中の「私」の(性)生活の満たされなさは、それが「散文的」であるところから来ている、という仮定からスタートして、その後の夢とも現とも判然としない男たちとの交渉の象徴的な意味を読み解いていこうとするところに、この作品を読む面白さがあるのだと僕は感じた。
また、「散文的」という語は、(短歌や俳句と違って)定型を持たない詩という形式の寄る辺なさを作品の外から照らし出す光でもある。そして、ともすると「夢」というあやふやなものの中に溶けてすべての意味が消滅してしまいそうな危うさを抱えた作品の中にあって、「詩」をつなぎ留めるために打ち込まれた杭のごとく、あるいは持続の生み出すマンネリに楔をさすごとく見事に働いているのが、作中に挿入された藤原龍一郎氏の短歌だ。(だから、作中人物の一人としての「藤原さん」という男は、「私」にとって唯一信頼を寄せるに足る人物として描かれている。)
もしかしたら、と僕は思う。『セラフィタ氏』は、「散文」化=マンネリ化した俳句に打ち込む楔として、何者かの手によって意図的にあの俳句の棚に置かれたのではなかったか、偶発的な間違いとしてではなく。しかし、だとしたら楔としての『セラフィタ氏』を手にするのはこの僕で良かったのだろうか?