読むタイミング

僕が勤務する高校には「健脚大会」といって、学校を朝スタートし、ゴールの江ノ島を目指して約24kmのコースを歩くという行事があります。中には長距離を歩かされることに対する不平を漏らす生徒もいますが、ほとんどの生徒はこの学校に入った以上は避けて通れない通過儀礼のようなものとして素直に受け入れ、彼らなりに楽しんでいるようです。特に湘南の明るい海を常に右手に見ながらの後半のコースは、天気さえ良ければ爽快な気分を味わえます。今年の卒業式でも、答辞を読み上げた卒業生代表が3年間の思い出の一番に挙げていたのがこの「健脚大会」でした。

夜のピクニック

夜のピクニック

そういうわけで、FMのラジオ番組の中でオススメの本として紹介しているのを聴いて以来、恩田陸夜のピクニックを読んで生徒にも紹介するというのは僕の中で長いこと懸案事項だったわけですが、他にも読みたい本がたくさんあるので後回しにしているうちにどんどん時間が経ってしましました。その後「本屋大賞」なる賞を取り、映画にもなり、文庫にもなり、世間での評判を耳にするたびに、僕の中での期待はちょっと膨らみすぎてしまったようです。


たしかに高校生たちの言動がリアルに(そしてややコミカルに)描けている点は素直に楽しめるし、彼らがのぞかせる繊細な心の揺れに共感することもできます。どの子もみんな好感の持てる若者たちです。でもなんだかちょっと優等生過ぎるんですね。
それから話の運びが実に淡々としています。中心的な登場人物である「貴子」と「融(とおる)」の中に起こる内面のドラマは、彼らにとって決して小さなものではないことはわかります。でも僕はもっとドキドキしたりハラハラしたりしたかったんだなあ…(佐藤正午を続けて読んだ直後というタイミングも悪かったかな…)
ラソンよりもずっと長い距離をまる1日かけて歩くという設定の中に、もっと劇的な事件を盛り込んでも良かったんじゃないか、というのが僕の率直な感想です。(ウチの学校の「健脚大会」の3倍も歩くわけですからね。それにしてもこういう行事がまだ続いている学校があるという事実に驚いてしまいます。)


ところで、小説中に次のような一節があります。
融の親友忍(しのぶ)が融に向かって、子供の頃に従兄弟に薦められながらもずっと読まずにいた『ナルニア国ものがたり』をやっと最近になって読んだという話をする場面です。

「…よかったら、貸してやるから読めよ。で、最後まで読み終わった時に俺がどう思ったかというと、とにかく頭に浮かんだのは『しまった!』っていう言葉だったんだ」
「しまった?」
「うん。『しまった、タイミング外した』だよ。なんでこの本をもっと昔、小学校の時に読んでおかなかったんだろうって、ものすごく後悔した。せめて中学生でもいい。十代の入口で読んでおくべきだった。そうすればきっと、この本は絶対に大事な本になって、今の自分を作るための何かになってたはずなんだ。そう考えたら悔しくてたまらなくなった。…あれくらい悔しかったことって、ここ暫く思いつかないな」

つまり何が言いたいかというと、この小説、僕が高校生くらいの若者だったらもっと感動して、友達に薦めまくっていたかもしれないということです。おじさんにはおじさんの読むべき本があるってことですね。(もちろん、おじさんといってもいろいろですからね、「オレは夜ピク、すげえ感動して読んだぞ」というおじさんのコメント、待ってますよ! 注・おばさんも可)