芭蕉の開いた心の世界

古池や蛙飛び込む水の音

日本人の誰もが芭蕉の代表作の一つであることを疑わない「名句」。
「古池」「蛙」「水の音」というあまりにもイメージしやすい平易な言葉だけから成るために小学生でも知っている「国民的俳句」。
しかし、長谷川櫂以前にその本質を余すところなく的確に語りえた人はいたでしょうか。もはや彼の著作『古池に蛙は飛び込んだか』を読まずして、この句について語るわけにはいかなくなったのではないでしょうか。
長谷川櫂は周到にその根拠を並べながら、この句が確かに「蕉風開眼」の画期的な句であることを明らかにして見せます。そしてさらに俳句を俳句たらしめている「切れ字」に対する深い洞察をも我々の前に示してくれるのです。(いや、切れ字「や」の本質に迫ることで初めて「古池」の句の実態が解き明かされたと言った方が、順序としては正しいかもしれません。)

言葉を切ることによって時間の流れを切り返し、その瞬間に心の世界を開く。それこそが「や」「かな」という切字の働きだった。切字はただ「大きな断絶」をもたらすのではなく心の世界を呼び起こす。

それゆえ「古池や」の句は「蛙が水に飛びこむ音を聞いて心の中に古池の幻が浮かんだ」と解釈されるべきである。「古池や」は「古池に」の代用では断じてあり得ない。「古池に蛙が飛び込んだ」では現実をただ写し取っただけの平板な句になってしまう。「古池」は現実のどこかではなく、読み手の心の中に存在するのだ、ということになります。
ところで実は、「古池」の句に対するほぼ同様な解釈は、すでに仁平勝『俳句をつくろう』(講談社現代新書の中にも見られるものです(p25〜p27)。
長谷川の場合はしかし、「古池」の句そものものの解釈を示すに留まりません。「古池」の句が「蕉風開眼」の句と呼ばれるにふさわしいことを証明するため、それ以後の句も「古池」同様、「蕉風」の具体化であることを明らかにします。つまり、有名な「夏草や」「閑かさや」「旅に病んで」などの句についても「現実のただ中」の「心の世界」を見事に浮かび上がらせているのです。
また、『去来抄』に記されたエピソード(「病雁の夜さむに落ちて旅ね哉」と「海士の屋は小海老にまじるいとど哉」では比較するまでもなく前者が優れていると芭蕉が言ったこと)についても、「心の世界」をキーワードとすることで芭蕉の発言の真意が解き明かされるとともに、「去来的」なものと「凡兆的」なものの対立という、俳句をめぐる根源的思索へと誘われるのです。
知的感興を覚えつつ芭蕉の作品の深い理解へと導かれる、これは類稀な名著なのではないかと思います。

古池に蛙は飛びこんだか

古池に蛙は飛びこんだか