詩の中の算術

 俳句の中に「こうだから、こうだ」という因果関係を持ち込むことは、避けるべきだとされる。うっかりそういう句を作ってしまうと、「説明」だとか「理屈」だとか言われて、批判されるのが落ちだ。
 詩についても、同じことが言えるのだということを、三好達治の『詩を読む人のために』(岩波文庫)を読んでいて知った。


   家             丸山薫


 母の顔に肖(に)たボンボン時計が掛けてあり


 それを見上げて 子供達はみんな大人になつた


 部屋数の余つた邸から 下婢達はおひおひ暇をとつて行つた


 そのころ 父はもう夕陽のやうに話さなくなり


 いつのまにか庭の鶴も歿(みまか)つた

 この詩について、三好達治はこう述べる。

第二行をうけた第三行はいささか理に堕ちて散文的なきらいがある。子供たちがおいおい世間へ出ていって「部屋数の余つた邸から」というのが、いわば算術だからその点少しおかしいのである。

 なかなか厳しい指摘だと思う。ここに「算術」が紛れ込んでしまっていることに気づく読者は多くないだろう。『詩を読む人のために』には批評家としての三好達治の鋭敏な感覚が随所にみられる。

詩を読む人のために (岩波文庫)詩を読む人のために (岩波文庫)

 

 

島尾文学と夢

 島尾敏雄の『過ぎゆく時の中で』というエッセイ集が、本棚の中で眠っていた。昭和58年発行。たぶん教材研究のために買ったのだと思う。「横浜生まれ」という文章に印が付いている。「横浜出身の作家だよ~」とか言って、生徒の興味を惹こうとたくらんだのだろう。その作戦は空振りに終わったにちがいないのだが。そもそも教科書の作品は何だったんだろう?

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 ところで、この中に「夢について」という文章(講演筆記)がある。その中で島尾敏雄はおよそ次のようなことを言っている。


 私は小説を書きながらも、自分の想像力を非常に貧しいと考えている。貧しい想像力で自分の経験の中からイメージを掘り起こしていかなければならない。その経験を、目を覚ましている現(うつつ)の時の経験の他に、夢の中の経験もあると考えてみると、そこまでイメージをつかむ「狩猟場」を広げてもいいんじゃないか、ということになる。夢というのは、現でいるときよりはずっと自在だ。それは自分の文学に、ある解放と豊かさをもたらしてくれる気がする。


 この著作の中には、他に「夢と私」「夢見と行歩」「夢の綴り」と、夢に言及する文章が多く含まれていて、島尾文学と夢の関りを探る手掛かりを与えてくれる。

夢の手法

 島尾敏雄の『夢の中での日常』を読んだ。買ったのは学生時代か、勤め始めてすぐの頃か。すっかり日焼けして、ページの奥の方まで色が変わってしまっている。最近は、そんな本を本棚から引っ張り出してきて読むことが多い。読むべき本は、新刊書店の棚よりも、自宅の本棚の中にこそ多く潜んでいる、なんてね。

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 森内俊雄による「解説」の次の一節は、島尾敏雄の本質の一面を鋭く言い当てていると思う。これは島尾文学批判であると同時に、島尾文学擁護論でもある。

 氏の小説世界の構築は「私」と、あくまで「私」の延長半径の「円」のうちにとどまる。おろかしいことを言うようだが、ある批判を先取りしたい必要があるのであえて言うことにする。氏が戦争体験に題材をとった一連の作品に国家意識の欠落を見、病妻物に妻の発狂のもとになった「私」の「あやまち」の曖昧な伏せ方に他者もしくは社会、「私」の外なる世界への関係意識、倫理の希薄を見るだろう。これも通俗の見解に従えば、思想とは他者との関係意識の客観性である。とすれば氏の小説にどこかいびつなところがありはしないか。氏の夢の手法も現実に対抗して思想を形成することへの回避ではないのか。

 小説が夢を描くのは、現実からの逃避姿勢の表れであるとの見方があるんだな、なるほど。しかし、夢の中にこそ人間の真実を暴く秘密が隠されているという考え方もあるはずだが、その点について、この解説は深くは掘り下げていない。「解説」は次のように続く。

だが、文学の思想、倫理とは何だろう。小説に人生相談の回答のたぐいを求めるあやまちをおかしてはならない。答えは簡単だ。ある作品がどうであれ読み手に感動を与え、慰め、生かしめさえするならば、それが文学の健康、思想、倫理というものだ。

 僕は今まで読んできた島尾作品から、何らかの感動や慰めを得たことはあっただろうか。

掘り出し物

 俳人石川桂郎の名前は知っていた。気に入った句を書き溜めてあるファイルの中に、

  釣堀がこんなところに雨の旗

が見つかった。平井照敏編の『現代の俳句』の中にも取り上げられている俳人だ。この人が小説家として優れた作品を残していることは、『名短編ほりだしもの』というアンソロジーを読んで初めて知った。本業は俳句ですが、余技として小説も書いてみました、というレベルではない。いや、本業は家業を継いで理髪店を営む理容師なのだが、その営みの中から生まれた(と言っても、どれも架空の話だというのだが)「剃刀日記」の中の諸編はどれも心にしみる名編である。「少年」もしかり。 

名短篇ほりだしもの (ちくま文庫)

名短篇ほりだしもの (ちくま文庫)

 

  この手のアンソロジーを読む楽しさは、思いがけない作者や作品に出会えるということだ。この本を読まなければ、中村正常久野豊彦伊藤人譽という作家の存在を知ることはまずなかっただろう。あまた存在する短編小説のアンソロジーの中から、さんざん迷った挙句にこれと決めて注文した一冊だが、確かに「ほりだしもの」を掘り当てたという感触だ。北村薫宮部みゆきによる「解説対談」も面白い。このシリーズ、手あたり次第読んでみようかという気になる。

 

 【目次】

宮沢章夫「だめに向かって」、「探さないでください」
片岡義男「吹いていく風のバラッド」より『12』『16』
・中村正常「日曜日のホテルの電話」、「幸福な結婚」、「三人のウルトラ・マダム」
石川桂郎「剃刀日記」より『序』『蝶』『炭』『薔薇』『指輪』、「少年」
芥川龍之介カルメン
志賀直哉「イヅク川」
内田百けん「亀鳴くや」
・里見とん「小坪の漁師」
・久野豊彦「虎に化ける」
尾崎士郎「中村遊廓」
・伊藤人譽「穴の底」、「落ちてくる!」
織田作之助「探し人」、「人情噺」、「天衣無縫」

 

中学生に読ませたい小説

教科書名短篇 - 少年時代 (中公文庫)
 

  これは中学校の国語の教科書に掲載された短編小説を集めた本。教科書に載るだけのことはあって、さすがに名作ぞろいではあるが、中学生には難しいのではないかと思われる作品もいくつかある。例えば、竹西寛子の「神馬」。最後に主人公の少女が「不仕合せになっている自分」気付くという極めて繊細な場面があるが、その少女の心情に中学生は共感することができるか… もちろんこうした作品に心を動かされる、感受性の鋭い中学生もいるに違いないが、この小説の魅力を伝えるのに中学の国語の先生は苦労しただろう。
 期待して読んだ山川方夫の「夏の葬列」は、ドキッとさせられる部分はあるが、そこに作為の強さを感じてしまって、あまり感心できなかった(※下に追記あり)。僕が中学生に読ませる教材として一つ選ぶとしたら、三浦哲郎の「盆土産」。ユーモアもあって、生徒は素直に受け入れるのではないかな。
 ところで、自分が中学生の時、国語の授業でどんな小説を読んだのか、実は全く記憶がない。心に残る作品と出会うことがなかったのかもしれない。中学の国語の授業が面白かったという記憶は全くなく、そのために中学の国語の教師になりたい気持ちも毛頭なく、中学校の教員免許は取得しなかった。中学の免許を持っていない高校の国語教師って、珍しいんじゃないかな。

 

【目次】
少年の日の思い出/ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)
胡桃割り/永井龍男
晩夏/井上靖
子どもたち/長谷川四郎
サアカスの馬/安岡章太郎
童謡/吉行淳之介
神馬/竹西寛子
夏の葬列/山川方夫
盆土産/三浦哲郎
幼年時代/柏原兵三
あこがれ/阿部昭
故郷/魯迅(竹内好訳)

 

■追記(2019年7月23日)

 今日、北原保雄の『達人の日本語』(文春文庫)を読んでいたら、山川方夫の「夏の葬列」について、「いささかフィクション性が強すぎるような気がする。出来すぎのような感じさえす。」「現実には起こりにくいような場面設定である。」と評している一節を見つけた。(計算された表現―「夏の葬列」の場合―)

 やはりそういう印象を与える作品なんだな。

 

 

教室で読む短編小説

 このところ、日本の短編小説を読むことが多い。
 昨年度一年間、文学作品に親しんでもらうために短編小説を一編ずつ読んでいく、という授業を担当していた。その準備のために、いろいろな作品を読んだ。多くは国語の教科書に載っている作品だったが、初めて読む作家もいた。
 山川方夫という作家を知らなかったのは、実に迂闊であったと思う。「他人の夏」と「朝のヨット」を読んだが、後者には強い印象を受けた生徒が多かったようだ。
 松田青子の「少年という名前のメカ」は、何度読んでも謎が残ってしまう作品。生徒の中からいろいろな解釈が出て来たのが面白かった。
 いしいしんじも初めて読む作家。「調律師のるみ子さん」と「ミケーネ」を読んだ。「調律師…」の方は登場人物の心理の変化を読み取らせるのに格好の教材。「ミケーネ」はちょっともやもやしたところが残ってしまって、生徒にはいまひとつピンとこなかったようだ。
 この4月から、職場が変わって、この授業の準備(教材の印刷が大変だった)と提出させた感想文のチェックからは解放されたが、通勤電車の中で読むのは短編小説が多い。最近読み終えたのが『戦後短編小説再発見1―青春の光と影』(講談社文芸文庫)。

戦後短篇小説再発見1 青春の光と影 (講談社文芸文庫)

戦後短篇小説再発見1 青春の光と影 (講談社文芸文庫)

 

 太宰治の「眉山」、三島由紀夫の「雨のなかの噴水」、小川国夫の「相良油田」、北杜夫の「上河内」が印象に残った。三島は昨年度の授業で「白鳥」を読んだが、残念ながら納得のできる授業にはならなかった。「雨のなかの噴水」は「白鳥」同様、若い男女間のお互いに対する心の揺れを描いたものだが、こちらの方が今の高校生には受け入れられそうな気がする。電車の中で小説を読むのも、半分は楽しみ、半分は仕事。

 

【目次】

太宰治眉山
石原慎太郎「完全な遊戯」
大江健三郎「後退青年研究所」
三島由紀夫「雨のなかの噴水」
・小川国夫「相良油田
丸山健二「バス停」
中沢けい「入江を越えて」
田中康夫「昔みたい」
宮本輝「暑い道」
北杜夫「神河内」
金井美恵子「水の色」