引用のモザイク

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浅沼璞の中層連句宣言―引用のひかりを読み終わりました。
前著『可能性としての連句でこだわりを見せた「連句への潜在的意欲」というテーマが、ここでは「汎引用説」という新たな関心に飲み込まれていきます。
日本文学の伝統の中には「本歌取り」などの表現技法が存在しますが、「引用」という方法を短詩型文学のみならず、多くの表現ジャンルの中に見出していこうとする意欲的な論考集です。そして、この著作そのものもまた、多くの引用に満ちています。


すべてのテクストは引用のモザイクである。」(ジュリア・クリステヴァ


僕も特に興味を持って読んだ中から二箇所、抜き出したいと思います。

 一般的に発句は、季語を含む部分と、そうでない部分とによってコラージュされてきた。近世ではそれは、季題をふくむ雅文脈と、そうでない俗文脈との「取合せ」として方法化された。いまも季語を含む部分と、そうでない部分とのコラージュは、俳句に活かされているはずだ。それを汎引用説で解釈するとどうなるか。
 プレテクストとしての「歳時記」から季語を「引用」し、それと不整合な文脈を、やはりプレテクストとしての「国語辞典」から「引用」する。もしくは逆に、「国語辞典」から雑(無季)のコトバたちを「引用」し、それと不整合な季語を「歳時記」から「引用」する。いずれにしろ、それら有季・無季の「引用」を取り合わせることによって、<シニフィアンシニフィエとの間の不整合な関係>を発生せしめ、新たなテクストとしての俳句を実在化する、ということになろう。(「引用の波――序にかえて」より)

次は、僕が小津の映画を観るきっかけとなった部分です。

Q さいきん小津安二郎について調べているんだって?
A あゝ、小津は終戦後、シンガポールに抑留中、映画班のスタッフと連句をやっていたみたいなんだ。
Q なんでまた。
A 当時すでに寺田寅彦連句モンタージュ論が巷間に流布してて、小津もそれに影響されたみたいだね。
  (中略)
  それにしても、映像における小津のモンタージュは、とても多義的で連句的だ。
Q けど、それは小津映画のモンタージュに限ったことじゃないんじゃないの。
A たしかにそういう側面もある。たとえば前々回ふれた<シニフィアンシニフィエとの間の不整合な関係>という引用原理にしても、一般的なモンタージュ論に援用可能さ。つまりシニフィアン(意味スルモノ)を「映像表象」、シニフィエ(意味サレルモノ)をそのまま「意味表象」とすれば、モンタージュされた「映像表象」は、おおむね「意味表象」のズレを発生させる。
Q ……でしょ。
A ところが小津の場合、それが、表象的な「意味付け」のレベルを越え、中層的な「移り付け」へと至ってる。それはまたクローズアップの技法とも絡んでんだけど、たとえば、あの有名な『晩春』の月夜の就寝ショット……
Q 知ってるよ、原節子のクローズアップと床の間の壺のモンタージュだろ。
A あれなんか、さいきん吉田喜重が『小津安二郎の反映画』(岩波書店)で述べた、<ひとつの意味に集約されることのない、限りなく浮遊するモンタージュ>の最たる例さ。つまり、<それは反物語であるとともに、反映画であることを意味して>るんだ。つまりは連句さ。(「連句問答」より)

では、さっそく「床の間の壺」を見てみようか…