説明的

僕には、俳句を評する文章の中にしばしば出てくる「説明的」という言葉が難しく感じられる。

俳句作品においては「説明的」であることは嫌われる。最近読んだ『俳句劇的添削術』の中でも、「説明的」である部分は必ず添削の対象となる。

たとえば「母脱ぎし若草色の花衣」については「母脱ぎし」が説明的だと言い、「母の脱ぎたる」とゆったりした調べで詠む方がいい、と筆者は言う。僕には「母脱ぎし」を「母の脱ぎたる」に直すことによって「説明的」であるという問題点が解消されたというのが理解できない。

また、「赤とんぼ海へと拡ぐハウス村」については「海へと拡ぐハウス村」はやや説明的であり、「海へ広がるハウス村」とすべきだと言う。確かにこの添削によって文法的な問題点は解消されたが、「説明的」であるという点については改善されたことになるのか、僕にはわからない。

洋服屋の窓のトルソー時雨けり」は「洋服屋の窓のトルソー」が説明的で、「仕立屋の窓のトルソー」なら良いらしい。上五の字余りが解消されてリズムが良くなったのはわかるのだが…

「説明的」という言葉はかなり広い意味で使われているようだ。もっと勉強しないといけないな。