小説のリアリティ

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

こんな男女の有り様を、現実世界のどこかに見出すことができるかといえば、その可能性は限りなくゼロに近いでしょう。センセイにしても、ツキコさんにしても、どこにでもいそうな平凡なタイプの人たちではありませんし、いくら親子ほども歳の離れた元先生と元教え子であっても、男と女である以上は普通はこうはならないだろうと思ってしまうのです。しかし、現実に起こりうる可能性が低いからと言って、この小説にはリアリティがない、ということにはなりません。小説のリアリティとは確率のことではないですから。
僕は『考える人』の今年の春号の「川上弘美インタビュー」という記事を読み、次に『溺レる』を読み、川上弘美に対する僕なりのぼんやりしたイメージを抱いていたのですが、そのイメージがツキコさんという作中人物と重なって、僕の中では一人の魅力的な女性がいきいきと動き始めました。(自分の中で作中人物が動き始めたとき、その作品は自分にとってリアリティを持ち始めるのです。)
そして、「日本人なのに、巨人が嫌いとは」などととつぶやいて意外な俗物ぶりをさらすセンセイに対して、「なんですかその偏見は」「巨人っていう球団はね、くそったれです」などと大人気ないところを見せて自棄酒をあおる「アンチ巨人」のツキコさんは、しばらく僕の中で生き続けることになりそうです。

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