消したい過去

mf-fagott2007-04-03

佐藤正午の二冊目のエッセイ集。でも著者は「あとがき」にこんなことを書いています。

最初のが出たのは前世紀(1989年春)のことで、感覚的に言えばもう百万年くらい昔の話だし、なんなら今度のこれを佐藤正午の第一エッセイ集と呼ぶことにしてもかまわない。

僕が察するところでは、中年にさしかかった著者は、若かった頃の自分の文章をできれば抹殺したいくらいに気恥ずかしく感じて、こんなことを書いているのではないでしょうか。24歳前後で初めて出会ったという「ありのすさび=生きているのに慣れて、なおざりにすること(広辞苑)」という言葉をめぐって、著者は次のように言います。

当時はまだ遠い未来への期待だけで生きていたといっていい、おくてといえばおくての、夢見がちの青年にとって、「ありのすさび」という言葉はそれほど意味を持たなかった。

「二十代三十代を後悔ばかりで通り過ぎてきた」という著者は、40歳近くなってこの言葉を次のように理解します。

「ありのすさび」という言葉は未来だけを視つめている青年には似合わないので、その青年を他人事のように眺められる中年にこそ、もしくは中年にさしかかって過去を振り返りはじめた小説家の、随筆のタイトルにこそふさわしいと、そういうことである。

僕が面白いと思って読んだ『ジャンプ』にしても『Y』にしても、作中の人物を突き動かすのは彼ら自身の過去への痛烈な悔恨の思いです。ということは『ジャンプ』も『Y』も、「ありのすさび」という言葉が身にしみる歳になって初めて書けた小説だったのではないでしょうか。読み手にとっても同じことで、これらの作品の登場人物に感情移入できるのは、未来よりも過去を多く背負った年代の読者かもしれません。高校生に勧めても、あまり面白いとは感じてくれないかも… 
さて、この随筆集に描かれているのはやや自嘲気味にカリカチュアライズされた中年の小説家の私生活です。ユーモアとペーソスを漂わせた文章からは、多分に作者の作為が感じられます。それを鼻につくと感じるか、面白いと感じるかで、この本の評価は分かれるでしょう。
もちろん、僕の評価は★★★★★。独身で自由業、つまり家庭にも組織にも縛られないという僕とは全く境遇が異なるこの小説家に、僕はなぜか共振するものを感じてしまうのです。(あるいはそうした僕とは正反対の境遇に魅かれる気持ちもあるのかもしれませんが。)『ジャンプ』『Y』執筆の舞台裏が書かれていることも僕の興味をそそりました。


ところでつい先日、この本が文庫になっていたことを本屋の店頭で知りました。でもこの本には岩波書店の地味な装丁が似合っていると思うなあ。

ありのすさび (光文社文庫)

ありのすさび (光文社文庫)

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