挑戦的なモーツァルト

昨晩、グリーンホール相模大野で行われた、ダニエル・ハーディング指揮マーラー・チェンバー・オーケストラの演奏会を聴いてきました。モーツァルト交響曲第39、40、41番、いわゆる後期の三大交響曲を一晩で聴かせるというなかなか豪華なプログラムでしたが、演奏もまた聴き応えのある充実したものでした。
ハーディングの解釈は実に斬新かつ大胆で、聞きなれた名曲のどれもが魔法にかけられたかのように新鮮な相貌を帯びて私たち聴衆の前に立ち現れてくるのです。
音楽自体の前に進もうとする自然な力に抗ってでも、部分部分のコントラストを際立たせ、細部の響きや一つ一つのフレーズの歌わせ方において新しい可能性を引き出していこうとするのがハーディングのやり方のようです。こうした演奏はおそらく演奏家にとっては相当の神経の集中を強いるものに違いなく、また聴き手にもまたそれなりの緊張を要求するものです。そういう点では、モーツァルトの旋律に身を任せてくつろいだ時間を過ごそうとする人には不向きな演奏だったかもしれません。僕自身、40番の4楽章、41番の1楽章に関しては、自然な流れを犠牲にしたことによるマイナス面の方が強く感じられて、やや不満ではありました。(モーツァルトではなくハーディングの音楽になり過ぎていたという言い方も出来るかも知れません。)
とは言うものの、全体的にみれば、新鮮で刺激的なモーツァルト像を示してくれた若き指揮者の才能と、その要求に応えたオーケストラの高度な演奏技術(重大な事故もありましたが…)は、十分過ぎるほどの満足を与えてくれたのでした。

■追記(10/12)
朝日の夕刊に、岡田暁生氏によるハーディングの演奏についての評が載っていました。8日に京都で行われたモーツァルト交響曲6番とブラームス交響曲2番のプログラムの方です。(これは僕は聴いてませんが…)「『面白いことは何でもしてやろう』といういたずら小僧のような好奇心が、どこかポップな遊び感覚を添える」とはなかなか本質を突いた表現です。ブラームスについて「全体の大きな方向を決めてから部分を演繹するのではなく、細部の『仕掛け』から出発するせいで、どうしてもダイナミズムが失われてしまうのである」とあるのは、僕が上に書いたモーツァルトに対する「不満」とも重なると感じました。

■追記その2(10/14)
NHK(BS2)でハーディング指揮のモーツァルトピアノ協奏曲No.20を聴きました。生気みなぎる爽快な演奏で、特に木管(中でもオーボエ)のつややかな音色と表情豊かな歌い方に魅力を感じました。でも、ピアノ(ラルク・フォークト)の弾き方はややラフなところがあったように思うのですが、どうでしょう?