文芸誌も黙ってはいない!

文芸誌が教育の特集をしている。それはそうだろう。文科省が打ち出した大学入試改革、高校の新学習指導要領の国語に関する部分に対して、文学軽視との批判が噴出している。国語教育関係者だけでなく、ブンゲイに関わるヒトたちとしても、黙ってはいられないという気分だろう。いや、文芸誌が売れなくなるとか、そんな話ではなく、今回の教育改革、とりわけ国語教育に関するそれは、中身を知れば知るほどそれで大丈夫なの? と不安になるばかり。

はっきり言って、新指導要領がスタートするときは、僕はもう教師という仕事を続けているかどうか、わかりません。完全に引退しているかもしれない。若い先生たち、大変だね~なんて、高みの見物を決め込むことだってできる。学校で文豪の作品が読まれなくなろうが、新潮文庫の『こころ』の売れ行きが下がろうが、関係ないもんね。僕は僕で読みたい小説を楽しんでいればいいんだから。でも、新指導要領が施行されたら、学校はどうなるのか、気にならないはずがない、いや、難しい課題を背負わされている苦闘する現場に首を突っ込んでみたい気持ちは、大いにある。そのくらいの元気はまだ残っているんですよ。

というわけで、「すばる」が「教育が変わる、教育を変える」という特集を組んでいるのを本屋で見つけて、つい買ってしまった。 

すばる 2019年7月号

すばる 2019年7月号

 

 インタビュー「変わる国語教育、なくなる文学―内田樹小川洋子茂木健一郎に訊く」より…

(内田)どこまで作品の底が知れないか、どこまで作家の意図がなぞのままか、それが楽しいわけじゃないですか。僕は「テキストから引き出し得る愉悦の量を最大化できる能力」のことを「読解力」と言うべきじゃないかと思うんです。だとしたら、「読解力」というのは人と比べるものでもないし、正誤を問うものでもない。

 

(小川)教科書で出会った文学が記憶に残るというのも、たぶん理性とか論理じゃないところに刻まれるからでしょう。出会い頭のようにぶつかって、理由もわからないまま、体感として残る。

 

(茂木)国には期待できないので、なるべく国と関係ないところで学びを守っていくしかないと思っています。たとえば私塾とかで守っていくしかないんじゃないですか。もし高校の授業で今後文学作品をやらないというんだったら、高校生に文学作品をリコメンドして、文学書を読む私塾をつくるとかですね。

みなさん、「改革」には否定的。

今日の新聞の広告で知ったのだけれど、「文学界」9月号でも「文学なき国語教育が危うい」という特集を組んでいる。同じような内容が予想されるけれど、こちらも読んでみるかなあ。 

文學界 9月号

文學界 9月号

 

 

詩の中の算術

 俳句の中に「こうだから、こうだ」という因果関係を持ち込むことは、避けるべきだとされる。うっかりそういう句を作ってしまうと、「説明」だとか「理屈」だとか言われて、批判されるのが落ちだ。
 詩についても、同じことが言えるのだということを、三好達治の『詩を読む人のために』(岩波文庫)を読んでいて知った。


   家             丸山薫


 母の顔に肖(に)たボンボン時計が掛けてあり


 それを見上げて 子供達はみんな大人になつた


 部屋数の余つた邸から 下婢達はおひおひ暇をとつて行つた


 そのころ 父はもう夕陽のやうに話さなくなり


 いつのまにか庭の鶴も歿(みまか)つた

 この詩について、三好達治はこう述べる。

第二行をうけた第三行はいささか理に堕ちて散文的なきらいがある。子供たちがおいおい世間へ出ていって「部屋数の余つた邸から」というのが、いわば算術だからその点少しおかしいのである。

 なかなか厳しい指摘だと思う。ここに「算術」が紛れ込んでしまっていることに気づく読者は多くないだろう。『詩を読む人のために』には批評家としての三好達治の鋭敏な感覚が随所にみられる。

詩を読む人のために (岩波文庫)詩を読む人のために (岩波文庫)

 

 

島尾文学と夢

 島尾敏雄の『過ぎゆく時の中で』というエッセイ集が、本棚の中で眠っていた。昭和58年発行。たぶん教材研究のために買ったのだと思う。「横浜生まれ」という文章に印が付いている。「横浜出身の作家だよ~」とか言って、生徒の興味を惹こうとたくらんだのだろう。その作戦は空振りに終わったにちがいないのだが。そもそも教科書の作品は何だったんだろう?

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 ところで、この中に「夢について」という文章(講演筆記)がある。その中で島尾敏雄はおよそ次のようなことを言っている。


 私は小説を書きながらも、自分の想像力を非常に貧しいと考えている。貧しい想像力で自分の経験の中からイメージを掘り起こしていかなければならない。その経験を、目を覚ましている現(うつつ)の時の経験の他に、夢の中の経験もあると考えてみると、そこまでイメージをつかむ「狩猟場」を広げてもいいんじゃないか、ということになる。夢というのは、現でいるときよりはずっと自在だ。それは自分の文学に、ある解放と豊かさをもたらしてくれる気がする。


 この著作の中には、他に「夢と私」「夢見と行歩」「夢の綴り」と、夢に言及する文章が多く含まれていて、島尾文学と夢の関りを探る手掛かりを与えてくれる。

夢の手法

 島尾敏雄の『夢の中での日常』を読んだ。買ったのは学生時代か、勤め始めてすぐの頃か。すっかり日焼けして、ページの奥の方まで色が変わってしまっている。最近は、そんな本を本棚から引っ張り出してきて読むことが多い。読むべき本は、新刊書店の棚よりも、自宅の本棚の中にこそ多く潜んでいる、なんてね。

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 森内俊雄による「解説」の次の一節は、島尾敏雄の本質の一面を鋭く言い当てていると思う。これは島尾文学批判であると同時に、島尾文学擁護論でもある。

 氏の小説世界の構築は「私」と、あくまで「私」の延長半径の「円」のうちにとどまる。おろかしいことを言うようだが、ある批判を先取りしたい必要があるのであえて言うことにする。氏が戦争体験に題材をとった一連の作品に国家意識の欠落を見、病妻物に妻の発狂のもとになった「私」の「あやまち」の曖昧な伏せ方に他者もしくは社会、「私」の外なる世界への関係意識、倫理の希薄を見るだろう。これも通俗の見解に従えば、思想とは他者との関係意識の客観性である。とすれば氏の小説にどこかいびつなところがありはしないか。氏の夢の手法も現実に対抗して思想を形成することへの回避ではないのか。

 小説が夢を描くのは、現実からの逃避姿勢の表れであるとの見方があるんだな、なるほど。しかし、夢の中にこそ人間の真実を暴く秘密が隠されているという考え方もあるはずだが、その点について、この解説は深くは掘り下げていない。「解説」は次のように続く。

だが、文学の思想、倫理とは何だろう。小説に人生相談の回答のたぐいを求めるあやまちをおかしてはならない。答えは簡単だ。ある作品がどうであれ読み手に感動を与え、慰め、生かしめさえするならば、それが文学の健康、思想、倫理というものだ。

 僕は今まで読んできた島尾作品から、何らかの感動や慰めを得たことはあっただろうか。

掘り出し物

 俳人石川桂郎の名前は知っていた。気に入った句を書き溜めてあるファイルの中に、

  釣堀がこんなところに雨の旗

が見つかった。平井照敏編の『現代の俳句』の中にも取り上げられている俳人だ。この人が小説家として優れた作品を残していることは、『名短編ほりだしもの』というアンソロジーを読んで初めて知った。本業は俳句ですが、余技として小説も書いてみました、というレベルではない。いや、本業は家業を継いで理髪店を営む理容師なのだが、その営みの中から生まれた(と言っても、どれも架空の話だというのだが)「剃刀日記」の中の諸編はどれも心にしみる名編である。「少年」もしかり。 

名短篇ほりだしもの (ちくま文庫)

名短篇ほりだしもの (ちくま文庫)

 

  この手のアンソロジーを読む楽しさは、思いがけない作者や作品に出会えるということだ。この本を読まなければ、中村正常久野豊彦伊藤人譽という作家の存在を知ることはまずなかっただろう。あまた存在する短編小説のアンソロジーの中から、さんざん迷った挙句にこれと決めて注文した一冊だが、確かに「ほりだしもの」を掘り当てたという感触だ。北村薫宮部みゆきによる「解説対談」も面白い。このシリーズ、手あたり次第読んでみようかという気になる。

 

 【目次】

宮沢章夫「だめに向かって」、「探さないでください」
片岡義男「吹いていく風のバラッド」より『12』『16』
・中村正常「日曜日のホテルの電話」、「幸福な結婚」、「三人のウルトラ・マダム」
石川桂郎「剃刀日記」より『序』『蝶』『炭』『薔薇』『指輪』、「少年」
芥川龍之介カルメン
志賀直哉「イヅク川」
内田百けん「亀鳴くや」
・里見とん「小坪の漁師」
・久野豊彦「虎に化ける」
尾崎士郎「中村遊廓」
・伊藤人譽「穴の底」、「落ちてくる!」
織田作之助「探し人」、「人情噺」、「天衣無縫」

 

中学生に読ませたい小説

教科書名短篇 - 少年時代 (中公文庫)
 

  これは中学校の国語の教科書に掲載された短編小説を集めた本。教科書に載るだけのことはあって、さすがに名作ぞろいではあるが、中学生には難しいのではないかと思われる作品もいくつかある。例えば、竹西寛子の「神馬」。最後に主人公の少女が「不仕合せになっている自分」気付くという極めて繊細な場面があるが、その少女の心情に中学生は共感することができるか… もちろんこうした作品に心を動かされる、感受性の鋭い中学生もいるに違いないが、この小説の魅力を伝えるのに中学の国語の先生は苦労しただろう。
 期待して読んだ山川方夫の「夏の葬列」は、ドキッとさせられる部分はあるが、そこに作為の強さを感じてしまって、あまり感心できなかった(※下に追記あり)。僕が中学生に読ませる教材として一つ選ぶとしたら、三浦哲郎の「盆土産」。ユーモアもあって、生徒は素直に受け入れるのではないかな。
 ところで、自分が中学生の時、国語の授業でどんな小説を読んだのか、実は全く記憶がない。心に残る作品と出会うことがなかったのかもしれない。中学の国語の授業が面白かったという記憶は全くなく、そのために中学の国語の教師になりたい気持ちも毛頭なく、中学校の教員免許は取得しなかった。中学の免許を持っていない高校の国語教師って、珍しいんじゃないかな。

 

【目次】
少年の日の思い出/ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)
胡桃割り/永井龍男
晩夏/井上靖
子どもたち/長谷川四郎
サアカスの馬/安岡章太郎
童謡/吉行淳之介
神馬/竹西寛子
夏の葬列/山川方夫
盆土産/三浦哲郎
幼年時代/柏原兵三
あこがれ/阿部昭
故郷/魯迅(竹内好訳)

 

■追記(2019年7月23日)

 今日、北原保雄の『達人の日本語』(文春文庫)を読んでいたら、山川方夫の「夏の葬列」について、「いささかフィクション性が強すぎるような気がする。出来すぎのような感じさえす。」「現実には起こりにくいような場面設定である。」と評している一節を見つけた。(計算された表現―「夏の葬列」の場合―)

 やはりそういう印象を与える作品なんだな。