『万葉集』を現代に生かす

斎藤茂吉の『万葉秀歌(上巻)』を読んだ。言わずと知れた、戦前からのベストセラーである。
特攻隊員が携えて戦場に向かったという話をどこかで聴いたことがあった。確かに、天皇賛美の色合いは濃い。しかし、それはこの本の要素の一つに過ぎない。茂吉が格別に高く評価しているのは、柿本人麻呂である。
僕はこれを『万葉集』入門の書にとどまらない、詩歌鑑賞へのよき手引き書、作歌作句をたしなむ者への指南書として面白く読んだ。

もののふの八十うぢ河の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも

                            柿本人麻呂
この歌の上の句は序詞で、現代歌人の作家態度から行けば、寧ろ鑑賞の邪魔をするのだが、吾等はそれを邪魔と感ぜずに、一首全体の声調的効果として受納れねばならぬ。そうすれば豊潤で太い朗かな調べのうちに、同時に切実峻厳、且つ無限の哀韻を感得することができる。

苦しくも降り来る雨か神(みわ)が埼狭野(さぬ)のわたりに家もあらなくに

                             長奥麻呂
「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」という如き、藤原定家本歌取の歌もあるくらいである。それだけ感情が通常だとも謂えるが、奥麻呂は実地に旅行しているのでこれだけの歌を作り得た。定家の空想的模倣歌などと比較すべき性質のものではない。

鼯鼠(むささび)は木ぬれ求むとあしひきの山の猟夫(さつを)にあひにけるかも                           志貴皇子
この歌には、何処かにしんみりとしたところがあるので、古来寓意説があり、徒らに大望を懐いて失脚したことなどを寓したというのであるが、この歌には、鼯鼠の事が歌ってあるのだから、第一に鼯鼠の事を読み給うた歌として受納れて味うべきである。寓意の如きは奥の奥へ潜めて置くのが、現代人の鑑賞の態度でなければならない。

万葉集』には、今歌われるべきうたの、参考にすべき点が多く見いだせるように思う。そこに古典と呼ばれるものの大きな存在意義がある。 

万葉秀歌〈上巻〉 (岩波新書)

万葉秀歌〈上巻〉 (岩波新書)

  • 作者:斎藤 茂吉
  • 発売日: 1968/11/20
  • メディア: 新書