自分から遠くなる

伊勢佐木町の古本屋で、中川一政の『随筆八十八』を見つけて購入。

前の持ち主の引いた線が残っている。たとえばこんな箇所。

威張ったって駄目だ。見る人が見ればみな見え透いてしまう。飾ったって駄目だ。嘘をついても駄目だ。無心にその人の力量だけの力を出していけばよい。そういう素直な心が出るだけで書は楽しいのだ。(書を書くこと)

でも、僕は、同じページの次の部分に線を引く。

師匠についた人は師匠どおりの字を書いている。自分の字の影も形もなくなった程合が上達と思っている。師匠が悪い。

師匠に似れば似るほど自分から遠くなる。(同)

絵や短歌(中川一政の短歌については、以前に書いた)、文章だけでなく、書にも才能を発揮し、個性的な作品を残した中川一政の言葉だ。これは書だけでなく、絵や文章にも当てはまることかもしれない。次に掲げるのは絵について語った文章からだが、これも、あらゆる芸に当てはまることだと思う。

人に褒められて多くの人は自信を持とうとする。それは他信と云うべきで、自信と云ってはいけない。(写生道一)

美術は美しさを第一にしてはならぬ。生きているかどうかを第一に考えねばならぬと。(同)

次は、岸田劉生について語った文章より。

鑑賞眼とは他人の創った美を見ることであり、創作とは自然の中から美を感得することである。

鑑賞眼があることは結構なことに違いないが、鑑賞眼がなくても画かきは務まるのである。(中略)却って創作を妨げることさえあると思う。(私の好きな一枚の絵)

中川は、岸田劉生を優れた鑑賞家だという。古今の名作から吸収し、内外の名品を蒐集し、それらから影響を受けるようになる。しかし、著者が好きなのは、それ以前の、初期の自画像だという。この文章からは、鑑賞眼の鋭さがわざわいした劉生、師匠に似て自分から遠くなってしまったとも言える劉生に対する著者の不満が読み取れる。