茂吉の万葉愛

 先日の『上巻』に続き、今回は『下巻』。

上巻同様、茂吉の万葉集愛があふれている。万葉集というよりも、万葉の時代そのものを愛していると言った方が良いかもしれない。

はなはだも夜更けてな行き道の辺の五百小竹(ゆささ)が上に霜の降る夜を

                                  作者不詳
万葉のこういう歌でも実質的、具体的だからいいので、後世の「きぬぎぬのわかれ」的に抽象化してはおもしろくないのである。

伊香保ろのやさかの堰(ゐで)に立つ虹の顕ろまでもさ寝をさ寝てば  東歌
虹の如き鮮明な視覚写象と、男女相寝るということとの融合は、単に常識的合理な聯想に依らぬ場合があり、こういう点になると古代人の方が我々よりも上手のようである。

 上巻では人麻呂に最大級の賛辞を捧げているが、下巻に於いて評価されるのは家持である。東歌や防人の歌のような、無名の人たちの素朴な歌や民謡風な作品も魅力的だが、そんな中にあって家持の歌に出会うと、彼の屹立した個性に驚かざるを得ない。

春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも  大伴家持
この悲哀の情を抒べたのは既に、人麿以前の作歌には無かったもので、この深く沁む、細みのある歌調は家持あたりが開拓したものであった。それには志那文学や仏教の影響のあったことも確かであろうが、家持の内的「生」が既にそうなっていたとも看ることができる。

わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも  同
小竹に風の渡る歌は既に人麿の歌にもあったが、竹の葉ずれの幽かな寂しいものとして観入したのは、やはりこの作者独特のもので、中世紀の幽玄の歌も特徴があるけれども、この歌ほど具象的でないから、真の意味の幽玄にはなりがたいのであった。

 このほか、あちこちに線を引いて読んだ。また読み返すことがあるかな…