人生の残り時間

 最近は人生の残り時間というものを意識して、新しい本を買って「積ん読」の山を無駄に高くすることは極力控えるよう心掛けている。それよりも、いつか読むだろうと思っていた本で既にいっぱいになっている本棚から、日焼けしたりシミだらけになったりした古い本を引っ張り出してきて読むことが多い。「いつか」はもう今しかないと思うからだ。
 三木清の『人生論ノート』を買ったのは、高校生の時か、大学生の時か。新潮文庫の奥付には「昭和51年 52刷」とある。値段は160円。「現国」の教科書に載っていた「旅について」にとても惹きつけられた記憶があるので、他の文章も読んでみたくなって買ったのだろう。所々に線が引いてあるので、少しは読んだのだろうが、全文を読むのは今回がおそらく初めてだ。
 正直に言えば、半分くらいしか理解できなかったのだが、非常に感銘を受けたところが何カ所かあったのも事実で、本を読んで黒々と線を引きたくなったのも久しぶりのことだ。たとえば「幸福について」の中の次のような一節。

機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。

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あるいは「虚栄について」次の箇所。

虚栄心というのは自分があるよりも以上のものであることを示そうとする人間的なパッションである。それは仮装に過ぎないかも知れない。けれども一生仮装し通した者において、その人の本性と仮性とを区別することは不可能に近いであろう。

 半分くらい理解できなかった部分が残っているのは悔しいことだが、その残り半分を理解するために、人生の残り時間を費やしてもいいように思う。これは、そんな魅力を感じさせる本だ。

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