幻の名作?

 井伏鱒二仕事部屋』(講談社文芸文庫)は、井伏鱒二初期(昭和初期)の作品群を収めたもの。この中のほとんどの作品が筑摩の旧「全集」にも「自選全集」にも収められていなかった(つまり、井伏自身によってはじかれていた)ため、この文庫は読みたくても手に入れにくい作品を世に出したものとして発売当初(1996年、僕が購入したのもその直後)は貴重な存在であった。今では、新しい全集がこれらすべてを収めているようではあるが、全集というのは28巻ともなるとそう簡単に手を出せるものではないので、文庫というのはやはりありがたい存在ではある。

仕事部屋 (講談社文芸文庫)仕事部屋 (講談社文芸文庫)

 

 僕はこの本を購入しただけで満足してしまったようで、今回読んでみると、さすがに「丹下氏邸」と「」は「自選全集第一巻」にも収められている「名作」であって、以前読んだときの記憶が蘇ってきて懐かしかったが、それ以外はどれも初めて読むもののようであった。
 これらの作品が、全集からはじいてしまうには惜しいだけの、井伏らしい魅力を湛えた作品であることは確かだし、昭和初期の文壇の動向の一断面を見せてくれるという点で、興味深い研究対象であることは間違いない。しかし、「幻の名作」というような評言(裏表紙にそう書いてある)が妥当なものであるのかは、疑問の残るところである。現代の読者の多くが「文学」あるいは「小説」に求めるもの(それは人さまざまだろうが)が、ここにはあるだろうか。

 小説は、娯楽で良い。幸福なひと時を過ごさせてくれさえすればそれで良い。しかし一方で、複雑な時代をよりよく生きていくための支えであってほしいとも願う。そんな僕にとって、ここで出会った作品群は、どちらの点でも少々物足りないと感じてしまったのは事実である。