詩人、蕪村

萩原朔太郎の「郷愁の詩人 与謝蕪村」を読んだ。これは詩人による俳句論としてなかなか面白い。また、朔太郎が自らの詩において何を追い求めたのかを探る手がかりともなる。

今や蕪村の俳句は、改めてまた鑑賞され、新しくまた再批判されねばならない。僕の断じて立言し得ることは、蕪村が単なる写実主義者や、単なる技巧的スケッチ画家ではないということである。反対に蕪村こそは、一つの強い主観を有し、イデアの痛切な思慕を歌ったところの、真の抒情詩の抒情詩人、真の俳句の俳人であったのである。ではそもそも、蕪村におけるこの「主観」の実体は何だろうか。換言すれば、詩人蕪村の魂が詠嘆し、憧憬し、永久に思慕したイデアの内容、すなわち彼のポエジイの実体は何だろうか。一言にして言えば、それは時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々(せきせき)しきりに思う、子守唄の哀切な思慕であった。実にこの一つのポエジイこそ、彼の俳句のあらゆる表現を一貫して、読者の心に響いて来る音楽であり、詩的情感の本質を成す実体なのだ。

以下、具体的に句を取り上げつつ、蕪村の句の和歌(とりわけ「万葉集」)あるいは近代西洋詩との親近性、芭蕉との資質の違い、などについて論じ、蕪村の句の魅力と独自性を浮かび上がらせている。