作者の意図と鑑賞の自由

 国語科準備室の一番奥の本棚は、その前に雑多な荷物が山積みになっていたために、近づくことのできない聖域になっていたのですが、その雑物の主がこの3月末で転勤し、すっすかり片付いたのを機に、その本棚の扉を開けてみたら、何とそこには学燈社の『国文学—解釈と教材の研究』のバックナンバーがぎっしりと詰まっていたのでした。僕はその宝の山の中から、すぐに目的の一冊を見つけ出すことができました。
 というのは、前々回も、前回も取り上げた『紺の記憶』の話にまたなるのですが、その中の「名句とは」という文章の冒頭で、飯田龍太は、「こと俳句に限って、ここ一か年間のうちで、示唆に富むもっとも興味ふかい記事は、「国文学」(学燈社刊 平成3年11月号)の座談会「名句とは何か、鑑賞・批評とは何か」であった。」と書いているのです。その後、飯田龍太は尾形仂の、

私は「名句」というものを、きわめて公式的な言い方ですが、日本の風土と日本人の心を深く詠んで、万人の共感を博し得るようなもの、というように考えています。…

と始まる発言を引用して「まさに的確そのものの指摘である」と評していますが、飯田龍太自身も『紺の記憶』所収の文章の中で「名句とは」について言及しているのは、前々回の記事に引用した通りです。


 僕もさっそく龍太が「もっとも興味ふかい」と評した記事を読んでみました。参加者は、尾形仂、大岡信、川崎展宏、森川昭、山下一海の六氏。僕もまた、興味深く読みました。印象に残ったのは、山下一海の次の発言。

研究家が、当時の作者の意図をあまりにも正確に測定してしまうと、鑑賞の余地をなくしてしまう結果になる。正確がいけないというんじゃないですが、研究家は鑑賞の自由を許容しなきゃいけない。文学の研究は、事実はこうだったということを正確に測定したうえで、さらにそれをバネとして自由に想像力を広げる余力をもっているものでなければいけないと思います。

 作者の意図と読者の解釈・鑑賞の不一致というのは、おそらく文学にとっての永遠の課題の一つといえるでしょう。