おそらく古本屋の店先の100円均一のワゴンの中にあるのを見つけて買ったのだろう、ずいぶん前から本棚にあって、そのままにしていたのを読み始めてみたら、これが意外と面白い。
筆者が言いたいことの柱は、「芭蕉が情報化社会の先駆者である」、「俳句は右脳で作るもの」の二つである。
前者については、芭蕉は全国の門人たちと手紙のやり取りなどで、情報のネットワークを作り上げていた。だからあの時代に、あれだけの大きな旅行ができたのだと言う。
後者については、右脳にはイメージ的世界・感覚的な世界を作り上げる働きがあり、左脳には分析的な働きがある。創造につながるのは右脳。芭蕉にも左脳で作り上げた句があり、それらは駄句であるとバッサリ切り捨てる。たとえば、
夏山に足駄を拝む首途哉
については、「かなり理屈っぽい句で、左脳的である。芭蕉もこういう句をつくるんだなと思えばよい。」と批判する。山本健吉が
いよいよ白河の関を越えるのだから、これから踏み越えるべき奥州路の山々を心に描いて「首途」と言ったのだ。「足駄を拝む」に、芭蕉の前途幾百里の思いがこもっている。(「『奥の細道』全句評釈」)
と評している句だ。最後の鼎談(+江國滋、滝大作)では、一番好きな句は
淋しさや華のあたりのあすならふ
だと言っている。筆者品川嘉也は脳生理学者で、Wikipediaによると「右脳ブームの仕掛け人として多くの一般書を著した」のだそうだ。