分け入っても分け入っても…

 金子兜太の『種田山頭火漂泊の俳人』(講談社現代新書)を読んだ。
 山頭火と言えば、世間では人気のある俳人の一人に数えられているわけだが、僕にとってはどうもよくわからない俳人なのである。

 分け入つても分け入つても青い山

 よく知られた代表句だ。僕もこの句には素直に魅力を感じることができる。漂泊のロマンティシズム。懐深い自然の包容力。日常から解放された行楽の歓び…おそらくは作者の意図を離れたそんな読み方も許してもらうことにしよう。
 しかし、この本の中で、ああ、山頭火はこんな句も作っていたのかと、ここに書き留めておきたくなるような句に出会うことはなかった。
 金子兜太によれば、山頭火とは、求道者(宗教的に自己を律していく者)ではなく、存在者(ありのままの自分を観照する者)であるという。托鉢の僧として生きたが、教義を自らの生の支えとしたわけではないらしい。では山頭火は放浪生活の中で何を極めようとしていたかというと、それは「空」であったという。この「空」が何を意味するかは難しい。「無心」とか「何事にも執着しない心」という意味のようだととりあえず納得してはみるものの、それを作品理解にどうつなげたらよいのかわからない。山頭火の発言が捉えどころがないのか、兜太の文章が難しいのか、自分の読解力が足りないのか? いずれにしても、今のところは、この本を手掛かりに山頭火の作品世界に分け入ることができた、という感想を持てないでいるのである。残念なことである。