文豪と閨秀作家

硝子戸の中 (新潮文庫)

硝子戸の中 (新潮文庫)

 「人格者」、「大人」というイメージの夏目漱石だが、こんなエピソードを読むと、漱石ほどの人でもこんなことがあったのかと、近寄りがたい文豪が少し身近な人になったようで嬉しい。

…ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪ねて来てくれた事がある。然るに生憎私は妻(さい)と喧嘩をしていた。私は厭な顔をしたまま、書斎に凝(じ)っと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
 その日はそれで済んだが、程なく私は西方町へ詫まりに出かけた。
 「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて不愛想でしたろう。私は又苦々しい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込んでいたのです」

 夫婦喧嘩の原因はなんだったのか、それは書かれていない。
 「楠緒さん」とは大塚楠緒新潮文庫の注解(紅野敏郎)には、1875年生まれの閨秀作家とある。僕は「閨秀」という言葉に「才色兼備」という意味があると勝手に思い込んでいたが、辞書で確認してみるとそれは間違いのようで、「日本国語大辞典」では「才芸にすぐれた婦人」となっている。しかし、上の引用部前後の記載から、「楠緒さん」がとても美しい人であったことは間違いないことのように思われる。

 「ある程の菊投げ入れよ棺の中」はこの人のために詠まれたものだそうだ。