「なると気分」

 『小説は君のためにある』の中に、「文学」と呼べる文章と呼べない文章の違いについて説明した、次のようなくだりがある。(第一章 文学とはなんだろう)

 <文例1>

 満塁になると気分が盛り上がる。

 

 この文章(まあ、文学)は、「文意」はすぐわかる。野球の話だ。野球、という言葉は含まれていないが、満塁という言葉があるからわかる。確かに野球で満塁になると、気分は盛り上がります。同意見の人は多かろう。そこでこれは、文意がよく通じる文章だと評価できる。

 しかし文章の「味」となると、どうだろう。

 味、しない。

 盛り上がるって書いてあるのに、読んでも盛り上がりを共有できないし、書いた人もあんまり盛り上がっていないんじゃないかとさえ思われてしまうくらい、無味乾燥。

 したがってこれは、ただ文意があるだけの文章、と評価できるわけである。

 こういう文章は、文学と思われないことが多い。

 

<文例2>

 今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうちさわぐかな

 

 文例1と、文意は同じである。満塁になると気分が盛り上がる、という意味である。

 だけどこの文章は、味が、かなりいい。まずリズミカルだ。五七五七七で短歌になっている。それから、ただ文意を伝えるだけじゃない部分が面白い。「満塁」のことを、「三つのベースに人満ちて」とある。ベースに人が満ちる、というのが楽しい。

(中略)

文例2について、僕はかなり濃く書いた。それは僕が、それだけ文例2を注意深く味わったからである。そして文例2が、味わって楽しめるだけのものを含んでいたからである。文例1だって、僕は同じくらい注意深く味わおうとしたのだが、味がないものをいくら噛んでも味はない。

 文例2は確かにリズミカルだ。短歌として書かれたのだから、「短歌になっている」というのは変な言い方で、当然「五七五七七」の定型に当てはめて読むことができる。それを、「味が、かなりいい」というのはわかる。日本人の大好きな味だ。

 それに対して、文例1には味はないか? 「注意深く味わおうとした」読者なら気付くだろう。「満塁に/なると気分が/盛り上がる。」これ、俳句になってるじゃん! 味、あるじゃん!

 いやいや、これを「俳句」と呼ぶのは語弊がありますね。季語もないし、キレもない。これを俳句のつもりで作ったのだったら、かなり出来の悪い俳句だ。でも、少なくとも「五七五」の定型に当てはめて読むことができる。あからさまに「五七五」の形をしていないだけに(句またがりという技巧を用いているわけですね)、実は「五七五」になっていると気づいた時の歓びはかえって大きい、と言ったら大げさだけど、ちょっとニヤっとしてしまう感じ。

 世の中には、おそらく書いた人は意識していないんだろうけれど、実は五七五になっているという表現は多い。新聞の見出しなんか、そのつもりで探してみると結構たくさんあることに気付く。もちろん、それを「文学」であるというつもりはないけど、「無味乾燥」とも感じなくなる。

 ところで、一度「満塁に/なると気分が/盛り上がる。」と読んでしまうと、そうとしか読めなくなるから不思議だ。「なると気分」って、どんな気分?