詩と詩論

 『西脇順三郎詩論集』を、黄金町のアートブックバザールにて¥500で購入。箱に入っていて状態が良ければ¥2,000位はするのだろうが、箱がなく汚れ気味なのでこの値段なのだろう。僕にはかえってありがたい。ちょっと読みかじって、すぐ投げ出してしまうかもしれない、難解そうな本だからだ。
 早速、「超現実主義詩論」を読んでみる。なんだかわからない部分もあるが、面白い。西脇順三郎の詩を読んでいるとここは詩論になっていると思う部分があるが、一方西脇順三郎の詩論は時に詩のようである。飛躍があり、省略がある。読者にはその空間を埋める努力が求められるが、あまり一か所で立ち止まらずに、ずんずん読み進むべきなのである。そこが西脇順三郎を読むことの難しさであり、面白さでもあるらしい。こんなことにはもっと早く気が付いているべきで、若い時にこういう本にはチャレンジしておくべきだったと思う。


 しかし、この本を購入してから少したってわかったことだが、この本に収められている文章のいつくかは、ずいぶん前に読んだエッセイ集『雑談の夜明け』(講談社学術文庫)にも収められているのだった。たとえば「脳髄の日記」は『雑談の夜明け』の方にもあって、開いてみるとしっかりと線を引いた所もある。それは次のような箇所だ。

すぐれた美にはどこか奇異なところがあり、おかしみがある。

無関係なものを連結してイメジをつくる人には表現しようとする対象が他にないのである。そうしたイメジ自身をつくり出そうとするだけが目的である。ヒュームはをのことを「新しい」イメジをつくることだという。そうしたイメジは何も象徴していない。何も象徴していないというイメジである。マラルメに言わせると「偶然」という方法でなければそういうイメジがつくられない。…何も象徴しないイメジは素晴らしいイメジであろう。そうしたイメジは最大な詩の世界の産物であると思う。

 こんなところに線を引きながら読んだ僕の頭には、もう俳句のことがあったかもしれない。「超現実主義詩論」を読んでいても、僕の興味を引くのはこんな箇所である。

連想を作るテクニィクは、科学的に性質を異にするものを結びつけることである。又時間的にも空間的にも、最も遠くはなれたものを結びつけることである。

 こういう意味のことを西脇順三郎は繰り返し述べる。そのたびに、僕は俳句の「二物衝撃」のことを思う。直接は俳句のことを言っているのではない文章を、俳句のことと結びつけながら読むのが、僕には楽しいのだ。

習慣の中に冬眠する人間の魂を意識の世界へ呼び戻すことが詩人の尊い努力である。

 ここでは「詩人」を「俳人」に置き換えて読んでみたくなる。
「超現実主義詩論」を読んだだけで、もう800円分くらいは楽しんだ気分だ。