一番乗り

つむじ風食堂の夜 (ちくま文庫)

つむじ風食堂の夜 (ちくま文庫)

 彼はエスプレッソ・マシーンの前に立ち、いくつかのスイッチを押してから、息を止めて慎重にカップを設置した。
「親父が死んだとき、なんとなく取り残されたような気がしたんです。まだいろんなことを教わっている最中だったんで。でも、親父、よく言ってました。もし、乗り遅れて、ひとり駅に取り残されたとしても、まぁ、あわてるなと。黙って待っていれば、次の電車の一番乗りになれるからって」
 マシーンが音をたてて動きはじめ、しばらくすると珈琲豆の香りが湯気をともなって、それこそ雲のようにあたりに満ちあふれた。

 この部分を読んだ時、一つの古い記憶が頭をかすめた。

――僕たちの車が久里浜港に着いたのは、ちょうどフェリーが出てしまった直後だった。次のフェリーが出るまで待合室のベンチでただ座って待っているのも退屈だと思った僕たちは、港のあたりをぶらついて戻ることにした。

 数十分後、港の駐車場に戻ってきた僕たちが見たのは、ちょっとした驚きの光景だった。広い駐車場にとまっているのは、僕の白いホンダシビック1台だけ。唖然としている僕たちに、笑いながら近づいてきた場内整理のおじさんが言った。
「フェリーはもう出ちゃったよ。次の便に乗ってもらうから、車、一番前まで動かしてといて。」
 フェリーの出港時刻表を見間違えていたのか? 運転手のいない白いシビックを迷惑そうによけながらフェリーに乗り込む車の列の映像が、頭をよぎった。

 次の便が着岸し、乗船準備完了のアナウンスが流れた。さっきの場内整理のおじさんの誘導に従い、列の先頭を切ってフェリーの胴体に飲み込まれていくときの、気恥ずかしさと晴れがましさの混ざったような複雑な気持ちが、今でも忘れられない。

 久里浜港から房総半島に渡るフェリーにはその後何度か乗ったが、そのたびに妻との間で必ず話題になるのが、この出来事だ。