歩行のように

詩についての小さなスケッチ (五柳叢書 101)

詩についての小さなスケッチ (五柳叢書 101)

 今日、小池昌代の散文を読んでいて、自分の中に長年わだかまっていたモヤモヤが晴れたような気がした。
 モヤモヤというのは、十代のころから抱いていた、現代詩に惹かれながらも現代詩に拒否されているようなある種の劣等感である。時々、詩を読みたくなって詩集のページを繰ってみる。ところが、散文を読んでいるときのようには、筆者のメッセージが自分に届いてこない。詩集はいつも、どこかよそよそしい表情を僕に見せるのである。「自分は詩が好きだと言いながら、実は詩を理解する能力が決定的に欠けているのではないだろうか…」
 ところが、小池昌代「詩の言葉が孕む『自然』―萩原朔太郎西脇順三郎(『詩についての小さなスケッチ』所収)の次の一節に出会って、自分の中に光が差し込むような、目の前の視界がスッと開けるような思いをしたのだった。

わたし自身、詩を書こうと思うとき、そこには必ず、ぼんやりとしていながらも、形への志向があった。これはなんだろう。詩を書こうとするとき、ある「かたまり」を紙面にあらわそうという欲望が生まれる。それは最初、読まれるものというより、眺められるブツである。実際の作品がどうであるかは置き、わたしのなかに予め存在する詩のイメージは、本を開いたとき、見開きに収まるほどの短いかたまりである。

 そう言われてみると、読者である僕もまた、詩が見せてくれる「見開きに収まるほどの短いかたまり」としての「形」、あるいはその「眺め」に、何よりもまず惹かれていたのではなかったかと気づく。詩人の欲望が、言葉を一目で眺められるほどの「形」に並べて見せたいというものであるならば、読み手の側がその「形」に惹きつけられたとき、両者は詩を挟んで既にほど近い地点に立っているのだと言えるだろう。
 しかしもちろん、言葉の短いかたまりを眺めただけで満足できないのが、詩の読者というものである。次に問題になるのは、いかにその詩の意味内容に入っていけるかだ。その点について、小池昌代西脇順三郎『旅人かえらず』を取り上げて、次のように書いている。

西脇順三郎は頭のなかに、寂しい野原を創った人だ。読んでいると、言葉によってここにあらしめられた植物が頭にじかに生えてくる感じがする。それはみな、言語の操作によってできあがったものだが、詩人はどこまで意識しただろう。言葉の意味は、一応通っている。しかし意味は第一順位では考えられていない。わからない文言がある。だが読者は、わからないということを理由に、そこで立ち止まる必要はない。むしろそのわからないなかを、ずいずい、進んでいくことが要請される。

リズムに意識を移して詩を読むと、言葉の意味は残らない。西脇詩はまさにそうである。言葉の運ばれ方に目的があり、読むことはすなわち、「歩行」に等しいものだ。詩行の「意味」は風景のように脱ぎ捨てられていく。

 詩の言葉の意味を「風景のように脱ぎ捨て」ながら「ずいずい」読み進むというのは、西脇の詩に限らないことだ。これは詩の「改行」とかかわる。小池昌代によれば、詩の改行とは「透明なついたて」。詩の各行の意味はそのついたてによって、前の行とも次の行とも断ち切られている。僕が詩に拒否されていると感じたのは、改行によって断ち切られている言葉と言葉の意味を、散文を読むときのように無理やりつなげようとしていたからではなかったか。詩は音楽、詩はリズムなどと理屈ではわかっていたはずなのに、身にしみついてしまった散文的な読み方からどうしても自由になれずに、詩に対してモヤモヤとした思いを抱き続けていたのではないか。意味を「風景のように」脱ぎ捨てながら歩くようにして読むことによって、今まで何年もの間、僕によそよそしくしていた詩が近づいてきてくれたなら、今日という日は僕にとって記念すべき日ということになる。