「汚いなあ…」と思う。ルノワールの絵のことである。
もちろん、そのすべてが、ということではない。しかし、昨年、展覧会場で観たルノワールの絵のいくつかはやはりそういう思いを抱かせた。
今、『赤瀬川原平の名画読本』を拾い読みしていたら、こんな一節が見つかった。
下手な絵である。色が汚くて、筆先が説明ばかりしている。ピアノの音なんてぜんぜん聞こえてこない。下手でも面白くて、鮮やかで見ていて飽きない絵もあるが、この絵は下手なだけで、どこといって面白くもなく、鮮やかなところは何もない。
ルノアールの「ピアノによる少女たち」について書いているのである。酷評である。赤瀬川の酷評はさらに続く。
「説明的で、だらんとしている」「絵の全体が薄汚れている」「清潔感がない」…
僕はルノアールの絵が下手だと思ったことはないけれど、赤っぽい色と緑っぽい色の組み合わせが生み出す汚れた感じが嫌いだ。にじみ出てくる俗っぽさにも辟易する。世間では人気のある画家なのに、どうも僕は好きになれない。
いつからこういう思いを抱くようになったのだろう。もしかしたら、『赤瀬川原平の名画読本』に無意識のうちに感化されて、色眼鏡をかけて作品の前に立つようになっていたのだろうか。いや、この本のことはすっかり忘れていた。この本を読んだのはおそらく20年くらい前のこと。たった今、たまたまこの本を本棚の中から見つけてパラパラとめくっていたら、上の一節が目についたのだ。そういえば、赤瀬川原平がこんなこと書いていたなあ…という感じ。
赤瀬川原平の名画読本―鑑賞のポイントはどこか (カッパ・ブックス)
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ついでに、目についた箇所を抜き出しておきます。モネの「日傘をさす女」について書いた中に、こんな一節があるのを見つけたので。
…絵を見るというのは楽しむことだ。微妙なニュアンスを味わうことだ。そうやって画家の位置に近づけば近づくほど、美味しい味が味わえる。
というところが、とくに印象派の絵は日本の俳句に似ている。俳句というものこそは、それを詠んだ人の位置に近づかなければ何もわからない。五七五、十七音の言葉だけでは何もわからないわけで、その言葉を何度も巡りながら、次第にその作家の立つ位置に近づいたところでそのニュアンスが味わえる。
日本人は印象派が好きだとよくいわれるが、その理由はこんなところにもあるのだろう。言葉だけでは晴らせない微妙なニュアンスこそが好きなのだ。それを味わうには作家の位置にできるだけ近づく必要があり、私小説民族の日本人はそういうことに馴染んでいる。そして印象派の絵が好きなのだ。
印象派と俳句を結びつけて考えたことはなかったなあ。