蛭のはなし

 近年丹沢では蛭の生息範囲が広がっているらしい。最高峰の蛭ヶ岳の名が、蛭に因んだものであるかどうかは定かではないが、この山域にも蛭が多く生息することは確かだ。先日、三十数年ぶりに蛭ヶ岳の頂上を踏んだが、その時は幸いこいつには出会わずに済んだ。
 新潮社文庫の『新改訂版俳諧歳時記(夏)』(昭和26年発行)によると、山蛭は「人音を聞くと木の上から落ちて来て吸いつく」とある。本当だろうか。僕の本棚にある他のもっと新しい歳時記には、このような記述はないが、河出文庫の『新歳時記(夏)』は、一茶の

人の世や山は山とて蛭が降る

という句を紹介している。音を聞いて上から降ってくるのが事実なら、夏の丹沢は、晴れた日でも傘をさして息を潜めて歩かなくてはならない。あるいは、山蛭が降るというのは、かつてミミズが鳴くと信じられていたのと同じような俗信で、今ではもう否定されているのかもしれない。



蛭ヶ岳へ向かう登山道に、蛭に吸われた時の対処法を書いた看板が立っていた。無理に引き剥がすと皮膚が傷むので、塩やアルコールを振りかけて自然に落ちるのを待ち、落ちた蛭は必ず殺処分するように、そうしないと血を吸った蛭はどんどん増殖してしまう、ということが書いてあった。蛭の被害にあう登山者も多いのだろう。厄介な生き物だ。
 丹沢で蛭の生息域が広がっているのは、鹿が体にくっつけてばらまいているかららしい。その鹿も、増えすぎて生態系を乱している。だからオオカミを山に放つべきだとの意見もあるという。どうするのが正しいのか、僕には全くわからない。
 そういえば、その鹿を今回の蛭ヶ岳では見かけなかった。四十年ほど前、高校生の時に初めて登った蛭ヶ岳の頂上付近では、霧の中からぬっと鹿が現れて、びっくりした記憶がある。しかしそれは、何かの本で読んだ一場面を、自分の経験のように思い込んでいるだけのような気もする。