子規と信仰心

 森本哲郎の「念仏としての俳諧」という文章の中の一節。

…日本では詩歌というものが、つねになんらかの宗教的な色彩を帯びているということである。日本の詩歌は、この意味で「美」に仕えるというより、「真」、いや、「信」を志向してきたといってよい。そして、そうした詩歌こそが、日本人に好まれ、高い評価を与えられたのである。和歌、俳諧といった短詩は、まさに、それに打ってつけであった。ことに、わずか十七文字の俳諧は、偈(韻文の教説)に通じ、それをつくる者も、それを解釈する側も、ともに、そこに「信」を見出そうとした。その始祖が芭蕉だった。だから蕉風とは、ひとつの宗派なのである。芭蕉が「正風」とされるのは、ゆえなしとしない。「正風」とは、まさに「オーソドックス」の意だからである。(『鑑賞日本古典文学第33巻 俳句・俳論』所収)

 これを読んだとき、僕は子規のいくつかの句を思い浮かべた。

迎火の消えて人来るけはひ哉

迎火が消えて、やってくるのはご先祖様の霊ではなく、人。子規の目はあくまでも現実の世界に向けられる。

涅槃像写真なき世こそたふとけれ

尊いのは釈迦ではなく、写真がなかった頃の「この世」。子規の関心は、「あの世」ではなくあくまでも現実世界の方にあるようだ。

二人ならば夏籠りせんと思ひけり

「夏籠りせん」と言いながらも、この句からは子規の宗教心は少しも感じられない。そもそも、子規という人はあまり信心深い人間ではなかったのではないか。

芭蕉忌や芭蕉に媚びる人いやし
芭蕉忌や吾に派もなく伝もなし

という句を作り、芭蕉と自分との間に距離を置く一方で蕪村の句を称揚したことと、子規の信仰心の薄さとの間には、深い関係がありそうに思うのだが、どうだろう?(そんなことは、既に誰かが指摘しているのかもしれないが…)
 「信」に仕えた芭蕉に対して「美」に仕えた蕪村。
 子規は芭蕉の価値を認めなかったわけではないが、子規の中のリアリストは、ともすると盲目的に「信」の側に傾き、芭蕉を無自覚に神格化しようとする世間の傾向に対し、異議申し立てをしないではいられなかったのだろう。そして、俳句の実作においても、写生を信条とする句を作りつづけた。
 子規の句を何度唱えても、成仏することはできない。